秋のある日 すまきとすまりんは 飛騨市の神岡を訪れました
山はオレンジと黄色に染まって 美しい山里は紅葉の盛りです…
神岡は鉱山で栄えた町です
しかし 精錬過程で排出されたカドミウムが 神通川水系を通じて下流に流れ 四大公害病のひとつ イタイイタイ病の原因となってしまったのです(>_<)
神岡鉱山は廃鉱となりましたが…
その坑道を利用して 東京大学宇宙線研究所のニュートリノ観測装置 スーパーカミオカンデが設置されています
「ニュートリノ」は物質を構成する最小の要素とされる素粒子のひとつで 理論的に存在が予言されていたものが この神岡で初めて存在が実証されました!
これらの業績により 2002年に小柴昌俊先生が 2015年に梶田隆章先生が それぞれノーベル物理学賞を受賞されました✨
スーパーカミオカンデは普段見学することはできませんが 道の駅「スカイドーム神岡」に併設された ひだ宇宙科学館カミオカラボ(入場無料)でその内容を学ぶことができます
(パネルの)梶田博士と 握手コーナー(*^^*)
すまき!手が変だよ^^;
すまりんも 握手 ♡
やっぱり違う…^^;
右手をのばさないと 握手になりませんね^^;
けっこうからだをひねらないと 後ろ向きになりそうです笑
ーーーーーーー
宇宙科学館カミオカラボの すぐ隣に 江馬氏館跡公園があります
開館時間:10時~16時(最終入館は15時30分)
※ 12月1日~翌年3月31日は冬季休館
料金 :大人 200円 小・中学生 100円
江馬(えま)氏は室町時代から戦国時代にかけて北飛騨を治めていました
発掘調査に基づいて会所(接客施設)・主門・庭園・土塀が復元されています
戦国時代の館の復元は 福井県の「朝倉氏一乗谷」や 青森県八戸市の「南部氏根城」の例がありますが 江馬氏のような ちょっとマイナーな 地方国人領主の館がこれほど立派に復元されているとは 驚きです...
ガイドさんのお話では 総工費は13億円だったそうです👀
国が10億!県が1億!合併前の神岡町が2億!出したということでした...
江戸初期以来 ここは田んぼになっていて 水田の中に残った大きな5つの石は「五ヶ石」と呼んで「江馬の殿様の庭石だ」と言い伝えられていました
パンフレットより 昭和初期の写真
ここの田から収穫された米から 鉱山廃土に由来するカドミウムが検出されて土地改良工事が行われることになり 発掘調査の結果 伝説通りの庭園を持つ中世武家屋敷跡が見つかったのだそうです
巨額の補助金は公害補償的なニュアンスがあったのかもしれません...
立派な館はそのおかげとも言えるでしょうか...
館を囲む堀は「薬研(やげん)堀」と呼ばれるV字型の堀です
薬草を刻む薬研の断面に似ていることからこう呼ばれています☝
こちらが薬研⤵
堀が「浅いな…」と思ったら ...
実際には かなり深かったようです⤵
主門をくぐって中に入ります...
会所の中はガイドのかたが案内しながら 解説して下さいました
※礎石遺構から考証の上 推定復元したもので 当時と全く同じものではありません
屋根瓦の出土はなかったので 板葺きだったと考えられています
広い館をぐるりと一周…
納戸(←武者隠しの間)
縁側から眺める庭園の景色は 中世の当時のままということです
根の痕跡はなかったので庭園は植栽されておらず 導排水の設備もないので 池に水は張られていなかったようです
土塀は奥へ行くほど低くなっていて 遠近法で庭が広く見えるように工夫されています
観音山(左)に傘松城という支城がありました 右は大洞山
盆地をぐるりと囲むように山城群で防御されています...
館の背後の山は これから登る高原諏訪城⤵
山深い飛騨の里にこのような立派な館や山城群が設けられていたというのは驚きですが 神岡鉱山は奈良時代に金を朝廷に献上したという記録があるそうですから 江馬氏は鉱山権益で裕福だったのかもしれませんね...
ーーーーーーー
江馬氏館の背後の山にある城が 館の「詰の城」であり 江馬氏の本城でした
館跡近くの登城口から徒歩でも登れるようですが 時間も無いので 中腹まで車で行きました🚗
2台ほどの駐車スペースがあると言われましたが…
スペースが足りなかったので ここから少し離れた場所に車をとめました
尾根筋を主郭(本丸)に向かいます🐾🐾
二重堀切 ※右の写真に線を入れました
主郭の周囲には特徴的な帯曲輪がめぐらされています
主郭に登る道は細くて急で 油断すると崖から落ちそうです^^;
10分もかからないで主郭(本丸)に到着🚩
主郭は一辺50ⅿほどありそうな広さです(*'▽')
高原諏訪城の縄張り図(左端が 車をとめた場所です)
主郭からは 江馬氏館を含め 神岡の町が一望できました!
素人写真にしては 良く撮れたかも(^_-)-☆
奥に見える銀のドーム↘が最初に訪れた道の駅スカイドーム神岡です
~ちょっと歴史のお話になります~
戦国の嵐は のどかな飛騨地方にも吹き荒れました…
建武の新政以来 「飛騨の国司」には もともと姉小路(あねがこうじ)氏という公家が任ぜられていましたが 内紛に乗じて岐阜の織田家と結んだ三木(みつき)氏という国人領主に家を乗っ取られてしまいました...
続・戦国クラスタが作る!永禄3年(1560年)の全国戦国大名勢力図
世戸口正親氏(@Fransisco1530)より
⇩
一方の江馬氏は 北アルプスの向こう側まで進出した武田家や上杉家と結びました
本能寺の変で信長が討たれたとの情報が入ると 江馬氏は飛騨の覇権をかけて 姉小路を乗っ取った三木氏を討つべく小島城を攻めました
しかし返り討ちにあって主君を討たれ 高原諏訪城も落城して江馬氏は滅亡しました
こちらの山が小島城跡⤵
無料の駐車場があったので車をとめました
ここから徒歩で30分で登れるとのこと...
登山口に いきなり 獣脱出防止の柵がありました!
柵をくぐってみましたが...
木が生い茂り 暗い感じで ちょっと怖くなって断念(>_<)
登るなら 春先の雪が解けたころがよいでしょうか…
ところで...
飛騨の北西部 「白川郷」一帯を支配していたのは内ヶ島氏でした
白川郷の町並み
飛騨の中でも陸の孤島と言ってよいほど峻険な地域であるこの一帯を支配した内ヶ島氏は 姉小路(三木)氏や上杉謙信の侵攻を撃退して独立を保ちました
その後 織田の北陸侵攻に伴い 内ヶ島氏は織田軍の対上杉最前線となった富山城主 佐々成政に与しました
信長亡き後 織田家の家督をめぐって有力武将の覇権争いが起こります
秀吉VS家康の「小牧・長久手の戦い」では 佐々成政 は家康方として金沢の前田利家と交戦しました
内ヶ島氏も反秀吉の狼煙をあげましたが 越前大野から侵攻した秀吉方の金森長近に あっという間に留守中の城を奪われ絶対絶命のピンチに陥りました!!
内ヶ島氏の居城 帰雲(かえりくも)城跡の碑
領地召し上げ 家名断絶もありえた内ヶ島氏でしたが 飛騨一国を与えられた金森長近の支配下に入ることを条件に本領を安堵されました
『めでたしめでたし…』と お祝いの宴会のために 内ヶ島氏一族郎党全員が 帰雲城に集まった天正13年(1585年)11月29日深夜...
帰雲城の背後の山が 突然 山体崩壊し 城下の人もろとも一瞬にして土石流が埋め尽くしてしまったのです(>_<)
震源は白山付近で マグニチュードは8近かったと推定されています
※滋賀では長浜城が全壊し 城主だった山内一豊が妻の千代との間の一人娘の与祢を亡くしたという大規模な地震でした!
城跡碑から望む帰雲山
紅葉の山肌に 今も450年前のがけ崩れの跡が生々しく残っています
埋没した家は300戸以上 圧死者500人以上といわれ…
内ヶ島氏一族のうち生き残ったのは所用で不在だった4人だけだったそうです
これによって 内ヶ島氏は一夜にして滅亡し 土砂に埋もれた帰雲城の正確な位置は現在もわかっていません...
国土地理院の傾斜量図でみると 山崩れの痕跡がくっきりと確認できます
荘川右岸の帰雲山(赤丸)だけでなく 左岸の三方崩山からも(緑丸)大量の土砂が崩れ落ちています
土砂が荘川をせき止めて土砂ダムを形成し それが決壊して二次的な土石流も発生したであろうと考えられています…
帰雲城が荘川の右岸にあったのか 左岸にあったのかすら わからないそうです
採石業を営む田口建設の社長の夢枕に帰雲城の武将が立ったということで 霊を祀る観音像や神社などをこの地に建立されたのだそうです
内ヶ島氏は金山を経営していたといわれ この城には埋蔵金が埋まっているのだと伝えられています...
以上 飛騨の神岡の歴史散策のお話でした
次回は この日の午前に訪れた廃線サイクリングのお話です(^_-)-☆