遠くに富士を望む冬の上州路…
まっ平らな関東平野に ぽつんと島のように浮かぶ丘陵があります
北関東自動車道の 「太田桐生インターチェンジ」 にほど近いこの山が…
今回訪れる 金山城です⤵
駐車場完備されているので 車でアクセス可能(^_-)-☆
金山城のパンフレットより⤵
新田義貞は1333年 難攻不落の鎌倉を攻め落とした南北朝時代の武将ですが 足利尊氏が室町幕府を興すにあたって滅ぼされてしまいます…
直系の新田氏は滅びましたが 一族の血を引く人々のなかで尊氏の味方をした岩松氏が領地を相続し 「新田岩松氏」を名乗りました
金山城は新田岩松氏によって築城され その居城とされました
城山の中腹にガイダンス施設があり 金山城について学ぶことができます
建物の前に車が数台とめられる駐車場があります
斬新でモダンな建物✨と思ったら 隈研吾氏のデザインでした
入場無料!
展示室内は撮影禁止でしたが 室外にジオラマ模型がありました
【物見台・馬場下通路の模型】
【大手虎口の模型】
ガイダンス施設から車で5分程… 山頂近くに駐車場があります
駐車場から階段をのぼったすぐのところが 西城になります
広い削平地の連なる尾根伝いを 実城(本丸)方面に向かいます🐾🐾
左に行くと 公園(ぐんまこどもの国)があります
「ぐんまこどもの国」は 曲がりくねった滑り台やサマー ボブスレーなどがある大きな公園です
大人も楽しめるのかな…
この日は空気が冷たく 風が吹くと耳がちぎれそうに痛かったので 寄り道はしませんでした
まっすぐ本丸へ向かいます🐾🐾
坂道を登っていくと…
「堀切」がありました
「堀切」は すまき監修『山城シリーズ』の記事には何度も出てきましたが…
主に山城で 外敵の侵入防止や遅延のために尾根筋を横切るように溝(堀)を造ったものです☝
見学コースは「堀切」を渡ってまっすぐに進みますが…
本来の道は石敷きになっている「堀切」の底に下り…
斜面を一旦下って…
斜面沿いに設けられた桟道(かけはしみち)を進むようになっていました
見学コースを進むと 立派な石垣が見えてきました
馬場下通路と名付けられています
道は細くなり 歩きにくいようにわざとゴツゴツした敷石になっています
巨大な堀切と切岸
崖の上には昔 物見台櫓があったようです
ジオラマ模型↓では 物見台櫓が設けられていますね
ここに門があって 虎口(こぐち)になっていたようです
山すそへ 竪堀が続いています…
馬場下通路をさらに進みます🐾🐾
左へ上がると物見台です(ジオラマ模型で櫓が置かれていた崖の上です)
馬場曲輪
柱穴の遺構がありました
馬場曲輪の奥は大堀切になっていて 実城(本丸)との間を遮断しています
なだらかな坂を下ると…
大堀切と大手道の交わるところに 月の池とよばれる貯水池があります
山頂付近にもかかわらず 水量豊富です!
籠城しても水の手に不安はなさそうです…
↙左奥が馬場曲輪 中央奥が大堀切↓ 右側が実城↘ です
池は寒くて凍っていましたが 猫さんがお水を飲んでいました
落っこちないか心配でした…
金山城のクライマックス 大手虎口です!
ジオラマでは櫓門が設けられています↓
排水溝が整備された石畳の道… まるでポンペイの遺跡のようです
『石垣が発達した関西の城と異なり 関東の城は土塁ばかり…』というかつての定説を覆した巨大な石垣遺構✨
緩やかなカーブを描いた階段状の道は奥に行くほど狭くなっています…
遠近法を利用した錯覚効果も狙っていたのですね
江戸時代には廃城となっていた中世山城とは思えないような立派な遺構です✨
金山城は日本100名城に指定されていて 関東七名城のひとつでもあります
井戸と武器庫兼詰め所
大手虎口の上にも まるでヨーロッパの公園のように美しく整備された池があります
日ノ池
直径15mあまりの日ノ池は 生活用水の確保というよりも 雨ごいや戦勝祈願のような儀式に使用されたとされています…
平安時代の祭祀遺物も発見されていて 築城以前から神聖な場所だったようです
さらに登ったところが御台所曲輪で 新田神社の参道になっています
主郭にあたる部分は本城や実城(みじょう)と呼ばれています
明治8年に金山城の城主の祖先であり 南朝勤王の武士であった新田義貞を祭る新田神社が創建されました
関東平野を一望できるすばらしい眺めです
名族 新田の流れをくんだ 新田岩松氏の時代も戦国時代に終わりをつげます…
下剋上の時代 岩松氏の重臣 横瀬氏が次第に力をつけて主家を凌駕し 金山城は乗っ取られてしまうのです
そして横瀬氏はを新田家にゆかりの地名にちなんで 自らを「由良」氏に改姓するとともに 新田氏の末裔を称しました
由良氏は 上野国(群馬県)の有力な国人領主として勢力を広げます
しかし この地は…
南に小田原北条氏 西に武田氏 北に上杉氏 東に古河公方足利氏…
四方を巨大勢力に囲まれて 狙われやすい場所でした
はるか東には筑波山が見えています
古河公方足利氏をはじめ 佐野氏・宇都宮氏・佐竹氏などの強豪が割拠していました
良く晴れていると多摩・秩父の山々の向こうに富士がちょこっと見えるようですが…
残念ながらその姿を拝むことはできませんでした^^;
南は東京都心⤵
特に高い建物はスカイツリーでしょうか↓
金山城といえば 女傑 妙印尼輝子の話が有名です✨
時は本能寺の変の直前…
由良氏をはじめとした上州(群馬県)の諸将は 織田方に降伏し 関東の雄であった小田原北条氏と敵対することになりました…
そんななか 本能寺で信長が横死した報告が関東にも伝わってきます
反撃ののろしを上げた北条氏は 神流川の戦いで滝川一益を駆逐し 再び上州に攻め入りました
北条氏と なんとか和睦した由良氏でしたが 祝勝に出仕したところを監禁され 金山城の明け渡しを要求されてしまいます…
城主が小田原に捕えられてしまった金山城の由良家では 城主の母で当時71歳だった妙印尼輝子が 家臣を引き連れ 城にたてこもりました!
金山城は北条軍に囲まれましたが…
具足をつけて長刀を持ったスーパーおばあちゃん妙印尼✨が兵を激励し 人質の息子を磔にすると脅されても 逆に北条軍に大筒を撃ち込み反撃するなど👀 大軍相手に善戦して落城しませんでした!
しかし多勢に無勢…
結局は息子の命と引き換えに 金山城は明け渡されることになりました(>_<)
神社の裏側にまわると 本丸石垣の残存遺構が見られるようです
こちらが残存石垣⤵
本丸を取り巻く腰曲輪(武者走り)が馬場になっていたようです
神社の裏手をぐるっと一周できます…
金山城が北条の手にわたった7年後…
天下人となった豊臣秀吉による小田原征伐が行われ 北条氏は危機に陥りました!
秀吉の大軍に対抗するため 北条傘下の関東諸将は皆 小田原城に集められました
桐生に移っていた由良氏の当主も小田原に参陣しましたが 北条を嫌った妙印尼(当時77歳)は孫2人と家臣300騎を率いて豊臣方の前田利家軍に合流し「孫の後見人」として北条と戦ったそうです…
北条に与した由良家は取り潰しになるところでしたが 妙印尼の功績が認められて常陸(茨城県)牛久に5400石の領地を得て家名を保つことができました
ーーーーーーー
金山城から南西に10kmほどの太田市世良田に 太田市立新田荘歴史資料館があります
金山城からこの一帯にかけて 新田氏が領有した新田荘がありました
新田義貞の像
三河の在地領主である松平氏から身を起こした徳川家康は 江戸幕府を開くにあたって自らの家系の権威付けを求めました
八幡太郎源義家の時代から 一応「武家の棟梁」は源氏が継ぐという伝統があります
いろいろ家系図の細工がなされた結果…
徳川家は清和源氏新田氏の分流である世良田氏から分かれた得川氏の末裔である ということになりました
世良田の地は「徳川家発祥の地」ということで 今も世良田東照宮が祭られています
ついては新田氏本家の方もそれなりの処遇を(そして家系図にも細工を…) ということで 新田氏の末裔を称する由良氏と岩松氏の双方が徳川家康に謁見することになりました
この時 岩松氏は家系図を見せることを拒んだらしく 由良氏は7000石の所領を与えられたのに対し 岩松氏は新田郡市野井村に「わずか20石」しかもらえませんでした(>_<)
その後わずかに加増されて「120石」となりましたが 旗本の中では極貧クラスでした…
しかし将軍家と同じ新田一門として格式だけは厚く処遇され 大名(一万石以上の領主)に準じて参勤交代をする身分になってしまいました!
お金がかかる参勤交代! わずか120石では全く足りませんよね^^;
そこで岩松氏は代々「猫絵」を描いて売り 資金を集めたそうです
(パンフレットより)
桐生織で有名なこの地方は養蚕が盛んだったので 猫絵はネズミ除けとして絶大な効果があると信じられていました✨
「猫絵の殿様」が描く「新田猫絵」は関西にまで有名になり 横浜開港とともに欧州へも輸出されたそうです…
新田荘歴史資料館のなかに 猫絵の常設展示があります
入館料:200円(中学生以下無料)
開館時間:9:30~17:00
月曜・年末年始(12/29~1/3)休
※館内は撮影禁止なので写真はありません
すまりんも記念に猫絵のクリアファイルを購入しました(100円)
可愛らしいですね(*^^*)♡
明治維新後…
岩松氏と由良氏は新田氏嫡流をめぐって再び争うこととなりました
検討の結果 新政府は岩松氏を新田氏嫡流と認めて男爵に叙し 新田男爵の猫絵はバロンキャットとよばれるようになったそうです=^_^=
ネズミを見つめる須磨…
かぷっ
ネズミじゃなくて『ひも』がすき♡
長い記事をお読み下さりありがとうございました
次回は みなかみのお宿「蛍雪の宿 尚文」のお話です(^_-)-☆