すまりんの てくてく ふたり旅

部屋付き温泉のある素敵な宿と美食を求め 夫のすまきと全国飛び回ります!

源氏物語執筆地「廬山寺」と 藤原道長の栄華の跡...

上賀茂神社参拝のあと すまきとすまりんが訪れたのは

源氏物語の執筆地跡」と言われる 廬山寺(ろざんじ)というお寺です

源氏物語」の執筆者は 言わずと知れた紫式部 

今年 (2024年) のNHK大河ドラマの主人公です✨

 

源氏物語」は古典の教科書にも出てきますよね...

原文や小説は読んだことがなくても もしかしたら『源氏物語 あさきゆめみし(←源氏物語をもとに作られた漫画)』を読まれた女子は多いのではないでしょうか?

光源氏✨ 美しいですよね(*^^*)💛

 

さて 「廬山寺」の場所ですが…

京都御所のすぐ東隣りにあります

地理院地図航空写真より

 

ここは南北に走る寺町通の北の果て...

今はずっと下った四条寺町あたりが繁華街ですが 平安時代にはこのあたりが京都の中心地だったのでしょうか

源氏物語執筆地」の案内がありました

廬山寺は第18代天台座主延暦寺中興の祖といわれる元三大師良減(慈恵大師)が開山したお寺です

もとは船岡山南麓にありました

応仁の兵火や 信長の比叡山焼き討ちで寺は荒廃し その後 正親町天皇の勅命により天正元年(1573年)紫式部邸宅跡だったこの地に移転したのだそうです

紫式部が住んだ当時の邸宅は 曾祖父の中納言藤原兼輔の時代から受け継がれた築100年の「旧い家」だったそうです

鴨川の堤防の西側に接していたため「堤邸」とよばれたこの家で 紫式部は一生の大部分を過ごしたと言われます

 

現在の本堂は 江戸時代に再建されたものです

光格天皇によって仙洞御所の一部が移築されたのだそうです

 

本堂脇から奥に入っていきます

 

紫式部の歌碑がありました

めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に
    雲がくれにし夜半の月影
        紫式部

有馬山ゐなの笹原風吹けば
    いでそよ人を忘れやはする
        大弐三位

紫式部の娘 賢子 は大弐三位と呼ばれました

大河ドラマでは紫式部の名前は「まひろ」とされていますが 本当の名はわかっていません

「藤原香子」だったのではないか という説もあるようです

 

庫裏にあがって 有名な源氏庭を拝観させていただきました

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 拝観時間:9:00~16:00(休館日あり)
 料金:大人500円 小中学生400円

※館内撮影禁止ですが入り口にある紫式部像とお庭は撮影可能でした

この地が紫式部の邸宅跡であることは考古学者の角田文衛博士によって考証されました

それを記念して廬山寺の境内に顕彰碑がたてられるとともに「源氏庭」が整備されたのだそうです

 

源氏物語の第二十帖に「朝顔」の巻があります

アサガオ」と呼ばれる植物は 時代によって変化してきたそうです

万葉の時代には「キキョウ」のことを指し その後 日本に渡来してきた「ムクゲ」に変わり 平安時代初期に現在の「アサガオ」を指すようになったというのが通説のようです

 

こちらでは紫式部にちなみ 石と苔の庭に紫のキキョウを植えられているそうです

キキョウの花は6月末~9月頃に開花するということですが  今は12月...

でも 冬日の木漏れ日がきらめく庭も 年の瀬の落ち着かなさを忘れさせてくれるようでとてもよかったです(*^^*)

 

ちいさな須磨も ひなたぼっこ🌞

甘えん坊の須磨...💗

ちいさな須磨は2022年にお空にいった愛猫の分身です

 

 

庫裏を出て境内を歩いていると「廬山寺陵 参道」という石碑を見つけました

裏手に小径が続いています...

 

進んで行くと🐾🐾

慶光天皇の御陵」がありました

慶光天皇??? 聞き慣れないお名前だと思ったら…

以下の理由でした

第118代 後桃園天皇崩御したときに皇子がいなかったため 7親等離れた光格天皇が即位することになりました

ところが光格天皇の父は典仁”親王”であり 宮中での序列が摂関家よりも下になります

このため天皇は父に太上天皇の尊号を贈ろうとしましたが 時の老中 松平定信はこれを拒み 断念せざるを得ませんでした

この件はあとをひいて 後に松平定信の失脚の原因にもなったようです

 

明治時代の世になり典仁親王明治天皇の高祖父であるということでこの件が再検討され 「慶光(きょうこう)天皇」と追諡されたというお話があったそうです

なので 実際に皇位につかれた天皇ではありません

 

 

廬山寺を出て寺町通をもう少し南に下ると 学校のグラウンドが見えてきます

 

角を曲がった片隅に 法成寺跡の石碑と案内がありました

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば🌕

...と栄華を誇った藤原道長は 晩年 法成寺の創建に心血を注ぎこみました

極楽浄土を再現した絢爛豪華な建築は後に宇治平等院のモデルとなったともいわれます

1028年 背中の腫物が悪化して死期を悟った道長は 法成寺の阿弥陀堂無量寿院)で九体の阿弥陀如来の手と自分の手とを糸で繋ぎ 僧侶たちの読経の中 自身も念仏を口ずさみ 西方浄土を願いながら往生したと伝えられています

1000年前の栄華をしのばせるものは 今は何も残っていません...

 

寺町通をはさんで向かい側は 京都御苑の森が広がっています

 

こちらは「梨木神社」の鳥居です

鳥居の向こうには かつて参道がありましたが 社殿の修復費を捻出するため開発業者に貸し出され 参道は分譲マンションになっています

 

京都御苑の清和院御門をくぐって 少し中に入ってみます

 

左の壁仙洞御所・大宮御所で 突き当たりは京都御所の土塀です

※仙洞御所は退位した天皇 (上皇) の御所で 大宮御所は上皇の后の御所です

 

 

清和院御門を入ってすぐ右手に 土御門第跡の案内がありました

藤原道長の邸宅跡です

当初は1町の規模でしたが 拡張が行われて 後一条・後朱雀・後冷泉ら三代の天皇の里内裏ともなり 道長家の繁栄を象徴する邸宅となりました

当時の大内裏はもっと西の方の二条城の北の辺りにありましたから 御所の隣に屋敷が構えられていたわけではありません

 

徒然草の第二十五段で 兼好法師

「京極殿(土御門第)・法成寺など見るこそ 志留まり 事変じにけるさまはあはれなれ…南門は焼けぬ 金堂はその後倒れ伏したるまゝにてとり立つるわざもなし」

と記しています

鎌倉の頃には 道長の栄華の跡は見る影もなくなっていたようです...



 

次回は

京都の老舗和菓子屋さんが手作りする可愛い和菓子のご紹介です(^_-)-☆