すまりんたちにとって
ちょっと気になる存在の大村益次郎...
彼の一生を追いかけながら...
幕末の歴史の一部分を振り返ってみたいと思い 書き始めたお話...
本日 後編です
こちらの前編からお読みいただければ幸いです⤵
※記事中の写真は全て現地に行き自身で撮影したものです
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開国へと舵を切った幕府に対し 攘夷の急先鋒となった長州藩は孤立を深めていきます...
文久3年(1863年)大村益次郎は江戸を引き払い長州の萩へと戻され 軍備関係の仕事を任されました
元治元年(1864年)京都で禁門の変(蛤御門の変)がおこると長州と幕府との対立は決定的となり 第一次長州征伐を招きました
こちらは京都御苑の蛤御門
門には今も扉に弾痕らしきものがあちこちに残っています
このときは幕府に降伏・恭順した長州藩でしたが すぐに「高杉晋作」が挙兵して主戦派が藩内の実権を取り戻しました✨
左端が高杉晋作です
真ん中の吉田松陰は安政の大獄で刑死し 右端の久坂玄瑞は蛤御門の変で亡くなりました
「人材が雲のように出た」といわれた長州藩ですが 維新の間に人が死に過ぎました💧
生き残ったなかで 唯一リーダーとして藩を率いることができたのが「桂小五郎」でした
京都に潜伏していた小五郎は 芸妓の幾松(のちの妻)らの助けを借りて 厳戒下の京都から苦難の末に 山口へ脱出しました💨
長州藩では桂小五郎の指導の下 西洋式兵制を採用した軍制改革に着手し その指導は今回の主人公である「大村益次郎」にゆだねられます...
旧山口藩庁門 (山口県)
益次郎は ここにおかれた政事堂に出仕していました
山口で益次郎が宿泊していた普門寺には「普門塾」または歩兵・騎兵・砲兵の三兵科について教えていたことから「三兵塾」とも呼ばれた塾が開かれました
益次郎は西洋兵術書を翻訳してわかりやすく書き改めたテキストを作成し 各隊の指揮官を集めて戦術や兵法を叩き込んだと伝えられています
中に入りきらない人は外で講義を受けたそうです
ところで...
この時代の銃は 旧式の丸い弾丸の火縄銃から 銃身内にらせん状の溝(ライフリング)を刻み 椎の実型の弾丸に回転を与えて射出することで より長い射程と命中精度を実現した ライフル銃に変わりつつありました✨
こちらは北海道の函館奉行所に展示されていた ミニエー銃よりさらに新しい 後装式ライフルのエンフィールド銃と椎の実型弾丸⤵
益次郎はいちはやく 最新のライフル銃であるミニエー銃を手に入れようとしますが それには困難を極めます💦
このとき 土佐の坂本龍馬の活躍で薩長同盟が成立し「亀山社中」により イギリス商人のグラバーから薩摩藩を経由するかたちで ミニエー銃4300挺を購入できました!
長崎のグラバー邸にて...
長崎にある坂本龍馬像
亀山社中記念館では 龍馬とツーショット写真が撮れますよ(^_-)-☆
※他のお部屋の資料は撮影禁止です
第二次長州征伐は 大島口・芸州口・石州口・小倉口の四つの藩境から幕府軍が迫る「四境戦争」になりました
幕府軍10万5000に対し 長州勢3500という兵力差でしたが 諸藩寄せ集めの幕府軍の士気は低く 装備も旧式のゲベール銃でした
ゲベール銃の有効射程が100ヤード(約91メートル)なのに対しミニエー銃は300ヤード(約274メートル)に達したといわれています✨
士気と武器は幕府軍に負けていません
益次郎は石州口方面の実戦指揮を担当しました
津和野から益田へと進むと 巧妙な用兵で無駄な戦闘を避けて敵を逃げさせ あっという間に浜田を落としてひと月あまりで石見銀山まで占領するに至りました!
長州藩の旧知で蘭学者の青木周弼は 益次郎を評して「その才知 鬼の如し」と語ったといわれます
武士の生まれでない益次郎は 馬にも乗れず 刀の抜き方さえ知らなかったということで 💦
…頭には百姓笠をかぶり ユカタを着て 腰に渋団扇を差し ちょうど庄屋の手代が隣り村へ涼みにゆくようなかっこうで…
長州軍の大将とはとても思えない下駄ばきで 部隊のうしろをてくてく歩いて行ったと...
「花神」の益次郎は そう描かれています
益次郎の進みゆく先で 武士の世の幕は引かれようとしていました
浜田藩の藩境にあった益田の扇原関門では 益次郎率いる800名の長州軍が開門を要求...
ところが
わずか数人でここを守っていた浜田藩の「岸静江国治」は譲らなかったそうです!
相手は800人ですよ💧💧💧
岸が無駄死することを哀れに思った長州軍が好意で退却をすすめたそうですが...
彼はそれを受け入れず 部下(寄せ集めの農民)を逃がし ひとり槍一本で立ちはだかり長州軍の銃撃を浴びて 仁王立ちのまま絶命したと伝わります
峠道の車道から 少しのぼったところにその扇原関門はあります
「これより北 浜田領」の石標⤵
岸は ここで亡くなったようです
彼のお墓は さっきの車道沿いにありました
浜田藩の関門を命を懸けて守ろうとした勇敢な忠義の士として 敵の立場である長州軍も費用を出し手厚く葬られたそうです
関門を突破した長州軍は峠を下った机崎神社に集結しました
益次郎は写真中央の小高い丘(稲積山)に登り 敵情視察して作戦をたてたと伝わります
幕府・長州両軍はこの益田川をはさんで対峙しました
川の南側... 長州軍が本陣を置いた妙義寺
幕府軍は七千以上で長州軍の十倍の兵力でしたが 益次郎の用兵で各個撃破され 潰走しました
萬福寺本堂は南北朝時代に建てられ 重要文化財に指定されています✨
鎌倉風の屋根がみごとですね!
すまりんたちが訪れた日は 朝からすごい風で 雨戸が閉められていました^^;
この萬福寺には雪舟禅師によって作庭された 有名な雪舟庭園があります
拝観料を納めて庭園と本堂を見学させていただきました
中央に須弥山石が配された 仏教の宇宙観を表すという庭園
本堂の柱には 当時の弾痕が残されていました
他の攻め口でも 最新式の銃を装備し 益次郎に叩き込まれた西洋式の戦術を駆使した長州軍は善戦し 高杉晋作が指揮した小倉口では小倉城を落城させています
小倉城天守は1837年に失火のため焼失していて 当時はありませんでした
※昭和にコンクリート造りの復興天守がつくられていますが 本来の姿を再現したものではありません
当時 幕政の座からしりぞけられていた「勝海舟」は かつて講武所で同僚であった益次郎のことをよく知っており「長州に村田蔵六がいては とても幕軍に勝ち目がない」と言ったそうです
絶体絶命の四境戦争を凌いだ長州藩✨
ここは長州藩の獄舎があったところで 四境戦争のあと 依頼をうけて益次郎が腑分け(人体解剖)を行いました
医学を志すものにとって 解剖実習は今では必須ですが 当時腑分けを見られる機会は貴重でした
この頃には軍事の才能ばかり目立つ益次郎ですが 彼本来の医師としての本領が発揮されたことでしょう...
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新政府軍として江戸へ
時代は倒幕へと移っていきます
戊辰戦争では 西郷隆盛と勝海舟の会談により 江戸の無血開城がなされました
西郷と勝は 標高26mの愛宕山山上から江戸市中を見回しながら会談したと伝わります
けっこう急な階段でした👀
こちらが頂上⤵
江戸の無血開城に納得のいかない旧幕臣たちは「彰義隊」を結成して 上野の山に立てこもりました
戦火が長引けば せっかく無血開城した江戸の町が焼け野原になってしまいます
益次郎は極力被害を少なくするために周到な作戦をたてたそうです
正門となる上野公園南側の黒門口に再現された黒門
ここには最精鋭である西郷隆盛ら薩摩藩が配置され 激戦となりました
「実際の黒門」は 現在荒川区三ノ輪の円通寺に移築されています
熾烈な銃撃戦を物語るように 門扉は弾痕で蜂の巣のようになっていました
益次郎は彰義隊がたてこもる寛永寺を取り囲ませましたが「北側にはあえて兵を置かず 退路をつくって逃げられるように」仕向けました
寛永寺の北側... 日暮里駅近くにある経王寺
逃れてきた彰義隊士を攻撃した弾痕が 門扉に残されています
あれ? たった今 彰義隊士をここから逃がす作戦だったと書いたばかりですが...
ちょっと矛盾がありますね^^;
戦闘中 益次郎自身は現場には行かず 江戸城富士見櫓で指揮をとったそうですが およそ戦の終わる頃合いまで ぴたりと予測していたそうです👀
※富士見櫓は皇居内にあるので 見学には整理券をゲットして皇居参観を申し込む必要があります(^_-)-☆
その後も益次郎は事実上の新政府軍総司令官として江戸で指揮を執り 戊辰戦争は官軍の勝利に終わりました✨
こちらは 鶴ヶ城を眺める白虎隊の像
鶴ヶ城が燃えていると思い 自決を決意したという場所です
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維新後
明治新政府では 武士(藩兵)から軍を編成しようと考える「大久保利通」と 国民皆兵(農兵論)を唱える「益次郎」とで意見が対立しました
しかし 結局軍事に関して益次郎に代わる人材は無く 益次郎は兵部大輔(次官)に任ぜられることになりました
次官ではありますが 兵部卿(大臣)は親王で名目上の存在だったので 事実上 明治政府軍の建軍は益次郎が担ったのです✨
益次郎は諸藩の廃止・廃刀令の実施・徴兵令の制定・鎮台の設置・兵学校設置による職業軍人の育成など のちに実施される日本軍建設の青写真を描きました
また 明治維新のために殉難した死者を慰霊するため 靖国神社(招魂社)の創建にも力を尽くしました
西郷隆盛・楠木正成と並んで東京三大銅像のひとつになっています
「西郷という人物は 武士階級を残そうとしている」という一点でしか理解しようとしなかった…
百姓であり医者であった益次郎は できれば人の命は生かすべきと考えていたのでしょう...
彼の戦い方は敵を包囲殲滅するというやり方を避け 逃げ口を作っておいて敵を逃がし 場合によってはあえて追撃もせず 味方の被害を最小限にして戦略的な勝利を得る というものでした
一方 西郷は 固陋な封建の世を一新するために
…日本中が火の海になり 焦土になってしまわねば 旧日本は亡びない …内乱の焼けあとの灰の中からあたらしい日本がうまれる(花神より)…
という考えで 根本的に相容れないものがあったのかもしれません💦
益次郎は後の西南戦争を予見していて 西郷らを中心とする薩摩藩の動向を気にかけていました
関東ではなく大阪に造兵廠(大阪砲兵工廠)を建設することにしたのはその備えのためだといわれています
こちらは大阪城
その北側...
京橋口の一角に 大阪砲兵工廠化学分析場の建物が今も残されています
現在大阪城ホールが建っている場所を含め 大阪城の北と東側の広大な敷地に アジア最大規模の軍事工場がありましたが 先の大戦で徹底的に爆撃破壊されました
明治2年(1869年)益次郎は関西に置いた軍事施設視察のために京都へ出張しますが その旅宿において 新軍建設に不平を抱く士族たちに襲われ重傷を負いました
高瀬川が流れる木屋町御池を上がったところに 奇しくも5年前にこの地で暗殺された「佐久間象山」と並んで遭難の碑が建てられています
新撰組の池田屋や坂本龍馬が暗殺された近江屋もここから半径数百m内にありますから 維新前後は超治安悪い場所だったみたいですね💧
すまりんなら絶対泊まりません^^;
右ひざの傷が 動脈から骨に達するほどの深手でしたが 医師であった益次郎は自ら処置をして一命をとりとめます
しかし治癒は進まず 大阪市にある大阪府医学校病院に搬送されました
医学校病院跡地には 今も国立病院機構大阪医療センターがあります
ここで 横浜から8日もかけて駆けつけてきたイネ (前回で登場したシーボルトの一人娘)や イネの娘 タカ(これもお話しましたが メーテルやスターシャのモデルにもなった...) らの献身的な看護を受けました
蘭医ボードウィンによる診察をうけた時には かなり化膿が進んでいて 即刻右大腿部切断の診断が下されます
けれど 当時は政府高官の大手術には勅許が必要だったそうで 東京への往復には少なくとも10日を要しました💧💧💧
手術後 数日は経過良好のようでしたが 傷口から入った菌のため敗血症による高熱を発し容態が悪化して 亡くなったそうです(>_<)
まだ抗生剤の無い時代です…
享年45歳でした
国立病院機構大阪医療センターの南東隅に巨大な殉難の碑があります
奇しくも 大阪医療センター(当時国立大阪病院)は1996年に司馬遼太郎先生が亡くなられた病院でもあります
益次郎は臨終の際「西国から敵が来るから四斤砲をたくさんにこしらえよ... その計画はしてあるが 人に知らさぬように」と後事を託し...
「切断した私の足は緒方洪庵先生の墓のかたわらに埋めておけ」と遺言したそうです
南森町駅近くにある龍海寺
※正面のこの門は閉まっていましたが 電話で確認したところ 呼び鈴を押して勝手口から入るように言われました
夫妻のお墓に寄り添うように 益次郎の右足が埋葬されていました
大村兵部大輔埋腿骨之地⤵
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場所は ふたたび 彼の故郷である山口の鋳銭司に戻ります
鋳銭司の郷土館
益次郎の死後 鋳銭司村の人々は益次郎のために「大村神社」を創建し 菩提を弔いました
鋳銭司郷土館の隣に 大村神社はあります
山の裏手に 益次郎の墓所があるということなので行ってみました🐾🐾
神社から歩くこと10分くらいで到着🚩
益次郎のお墓は 妻の琴子のお墓と並んでいました
今回の記事を書くにあたり 参考にさせていただいた司馬遼太郎の「花神」
「花神」とは 野山に花を咲かせ そして人知れず去っていく神のことだそうです
幕末から明治にかけて 百花繚乱の人材が世に出て 日本という国を回天させました
西郷隆盛・坂本龍馬・高杉晋作… 多くの人に名の知れた維新の偉人にくらべて 大村益次郎の名はあまり有名ではありません
しかし彼がいなければ あのように鮮やかな形で維新は成らなかったでしょう...
繚乱の花も あるいは咲かなかったかもしれません
2022年 阿蘇にて撮影
時代の要請とともに忽然と現れ そして栄光を待つことなく 役目を果たせば静かに消えて行った偉人の足跡を わずかながら振り返ってみました
長い記事をお読み下さりありがとうございました
次回は