桶狭間の戦いといえば...
大河ドラマや歴史小説で何度も何度もえがかれた有名な合戦です✨
親族同士の熾烈な戦いを経てようやく尾張を統一したばかりの織田信長に 駿河・遠江・三河の三国を領する今川義元の大軍が迫ります!
今回は 合戦当日 信長が進んだ道をすまきと共に歩いてみることにしました
🐾🐾🐾🐾🐾🐾
信長の進軍ルートについては【信長攻路】桶狭間の戦い 人生大逆転街道という名古屋市肝いりの観光マップが作られたりしていますが...
https://nobunaga-kouro.nagoya/
正確にはよくわかっていません
検討の結果...
すまりんたちは 太田輝夫先生著作の「桶狭間合戦 奇襲の真実」という本や 当時の地形がまだ残っていた明治期の帝国陸軍陸地測量部の地図を参考にしながら オリジナルのルートを考えました(^_-)-☆
ー ー ー ー ー ー
時代は戦国時代まっただなかの永禄3年5月(今の暦では梅雨の6月)
今川氏の圧迫により鳴海城・大高城が調略され 織田領は知多半島の付け根で南北に分断されつつありました
※「桶狭間合戦 奇襲の真実」より
これに対抗すべく 砦を築いて城を取り返そうとしていたところに 今川軍来襲の知らせが入ります
その数2万5千!
当時の織田軍の兵力は2千だったといわれています
・・・・・
5月18日 信長の居城 清洲城(きよすじょう)で軍議が開かれます
大高城を包囲するために築いた 丸根・鷲津の砦が 今川軍の先鋒部隊に攻められて救援要請があったのですが 信長は早々に軍議を切り上げ 動こうとしませんでした
大高城(別日に撮影)
丸根砦
鷲津砦
この戦いでは 当時今川軍に所属していた 松平元康(徳川家康)が活躍しました
こちらが清洲城✨
※平成元年につくられたもので当時の姿ではありません
ただいまの時刻は午前6時15分...
まだ開館前で入場することはできません
清洲城天守は実際は五条川を渡った対岸の清洲古城跡公園にありました
城跡は東海道本線と新幹線によって分断され 大部分が消失しています
公園前にある石碑⤵
川の護岸工事の際に出土した当時の石垣が 復元展示されています
新幹線の線路をはさんだ清洲公園には 信長と帰蝶(濃姫)の銅像が…
夫婦円満・恋愛・立身出世・必勝祈願のパワースポット✨だそう
1609年 徳川家康により尾張徳川藩の本拠が清洲から名古屋へ移されると 清洲城は廃城となりました
清洲城天守を移築したと伝えられる名古屋城御深井丸(おふけまる)の西北隅櫓
さて 5月19日 桶狭間合戦当日の信長は というと...
早朝に湯漬けを食し
幸若舞の「敦盛(あつもり)」を舞い...
出陣の法螺貝を吹かせて 主従わずか6騎で城を飛び出しました!
人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻乃如くなり...
昔 親友にすすめられて見ていたTV番組「戦国鍋TV 〜なんとなく歴史が学べる映像〜」のなかで敦盛2011という曲が流れていました
♫武田勝頼討ち獲ったら城持ち大名になりたいな…
~下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり~♪
なんとなく歴史が学べる(?)ノリノリの曲✨
歌詞は別として笑 クセになる(?)曲なので サビの部分だけでも ぜひ聞いてみてください (^_-)-☆
信長役は村井良大さん 蘭丸役は鈴木拡樹さん
お二人とも素敵ですよね✨
敦盛2023を舞う我らがのぶにゃがさま
ちゅ~る湯漬けを持て!
いざ出陣にゃー!
まずは熱田神宮に向かい 軍の集結を待ちます🐾🐾
清洲から熱田方面に向かう道は「京鎌倉往還道」と「美濃路」が考えられるようですが 東海道の発展とともにかつての京鎌倉往還道は失われ 現在はっきりとした道をたどることはできません
一方の美濃路は 時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」(埼玉大学教育学部 谷 謙二先生)でもはっきりと確認することができます
すまりんたちは美濃路をたどって熱田に向かうことにしました🐾🐾
歩き出してすぐ 前田利家とまつの案内板がありました
前田利家は刃傷沙汰をおこして出仕停止処分中でしたが 桶狭間の戦いに無断で参加し 首級三つを挙げる戦功を立てました
旧街道の面影を残す道
さすがお寺さん!もう門が開いていました
すこしおじゃまして 境内にある「今川塚」を見学
枇杷島橋に到着
庄内川を渡ります🐾🐾
橋のたもとに 美濃路の道標がありました
橋は江戸時代に架けられたようですが 信長たちはどうしたのでしょうか...
濃尾平野は大きな川が多いので移動が大変ですね
現在の時刻は7時15分...
次は名古屋城まで3.1㎞です🐾🐾
清音寺の前を通り過ぎました
枇杷島の語源となる伝承のあるお寺です
ポイントとなる場所には「信長攻路」のシンボルマークがありました
この辺りは信長の庭みたいな場所だったようです
こちらが榎白山神社
清洲城より出陣した信長が 最初に戦勝祈願をした場所といわれています
大勝利のお礼として太刀一口を奉納されたそうですが 名古屋空襲で焼失したそうです
名古屋城まであと少し...
名古屋城の内堀にたどり着きました
こちらが先ほど出てきた御深井丸(おふけまる)の西北隅櫓
清洲城天守を移築したと伝えられ清州櫓(きよすやぐら)とも言われます
実際に解体修理された結果 高欄 (最上階のベランダ)を伴う櫓状の建築の部材が多く転用されており 伝承が裏付けられた形となりました
※天守の形は望楼型から層塔型へ進化していったので「高欄がある望楼型の建築」は 古い時代のものと推定されます
宇土城の天守を移築したといわれる熊本城の宇土櫓(うとやぐら)もそうですね
※熊本地震で損壊する前に撮影
名古屋城から熱田に向かう道は 名古屋城の城下町整備によって旧道が変えられている可能性が高いです
今はきれいな碁盤の目に区画整理されていて 那古野(なごや)とよばれた戦国時代当時の面影はありません
当時の那古野村には 那古野城があり 信長も一時ここに居住していました
現在の名古屋城二之丸一帯に城があったと考えられていますが 遺構は残っていません
※ 名古屋市博物館HPより 那古野村之古図
信長一行が駆け抜けた際には 那古野城に詰めていた兵士たちにも 出陣の触れが伝えられたことでしょう...
現在8時15分
信長時代の旧跡をひろいながら 金山へ向かいます🐾🐾
およそ6㎞の道のりです
本社ビルの並ぶ 丸の内のオフィス街を進みます
名古屋市科学館のプラネタリウムの下は開館前で通れず 迂回...
白川公園の新緑に 疲れが癒されます
大須観音の前を通り過ぎました…
日置神社に到着
出陣の際に信長が戦勝祈願をし 勝利の御礼として松を千本を植えたと伝えられています
沢山あったはずの松は 明治時代に最後の1本が枯れて 今は無いそうです
スタンプラリーもあるんですね⤵
続いて現れた立派な寺院は真宗大谷派名古屋別院です
古渡城(ふるわたりじょう)があったと言われ 古渡城跡碑がありました
東南方への備えの役割を果たす重要拠点で四方を二重の堀に囲まれていました
信長13歳の時 この古渡城で元服したと言われています
歩き始めて まもなく3時間...
暑くて喉がカラカラだったので 水分補給✨
名古屋別院に隣接する下茶屋公園
古渡城の堀跡にあたるのだそうです
堀跡の痕跡を残す池には黄菖蒲の花が満開でした(*^^*)
都会のオアシスですね✨
金山駅前を通過🐾🐾
ただいま9時35分...
熱田神宮まであと2.4㎞! がんばります
かなり日差しがきつくなってきました^^;
日陰を選んで歩きます🐾🐾
熱田神宮に到着! こちらは西門です
感染症も下火になって 参道には参拝客がたくさんおられました
こちらが本殿⤵
三種の神器の1つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)が祀られています
桶狭間当日...
信長はここで戦勝祈願をして『5枚 投げた銅賽銭のすべてが同じ面を向く✨』という吉兆を得たと伝えられています
熱田神宮宮司の千秋氏も織田家配下の武将の一人で 桶狭間で重要な役割を果たしつつ 戦死を遂げました
戦後 勝利の御礼として信長塀が奉納されました
本殿を囲うように建立された塀は 一部ですが現在も当時のまま残っています
樹齢1200年を超える手水舎横の大楠は弘法大師の手植えと言われています
この木はきっと当時の様子を見ていたのでしょうね...
こちらが正門
正門を出てすぐ右側にある摂社 上知我麻(かみちかま)神社
源太夫社と通称されるこの神社は かつてはもう少し南の 美濃路と東海道の分岐点にありました
信長の旧臣である太田牛一が 江戸時代初期に記した『信長公記』によれば「辰の刻に源大夫殿宮の前で東をご覧になると鷲津・丸根砦が落ちたと思われ 煙が上がっていた」との記載があります...
当時の熱田神宮は すぐ南に海が迫る岬の突端のような場所にあったので 今と違って眺めも良く はるか南の戦場の煙が見えたのでしょう
この時 信長一行は 馬上6騎と雑兵200人ほどだけだったと言われます
雑兵の中には 当時足軽程度の身分だった 木下藤吉郎(秀吉)もいたかもしれませんね
熱田神宮正門のすぐ南...
こちらは 鰻のひつまぶし発祥の店とされる「あつた蓬莱軒」神宮店です↓
時刻は10時30分
もうお昼の順番待ちの整理券が配られていましたが すまりんたちは先へ進みます🐾🐾
国道1号線に出ました
戦国時代にはこの辺りまで海が寄せていて 潮の具合によって大きく山の手を迂回する必要がありました
平安時代に遡りますが『更級日記(さらしなにっき)』でも 著者の 菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)が「あづま路の道のはてよりも なお奥つ方」から京の都へのぼる道中…
「尾張の国 鳴海の浦を過ぐるに 夕潮ただ満ちに満ちて 今宵宿らむもみ中間(ちゅうげん)に 汐満ちきなば ここをも過ぎじと あるかぎり走りまどひ過ぎぬ」
と書き記しています
→→鳴海の浦を過ぎると午後の潮が満ちてきていました
ここで宿をとるのも中途半端なので 満ち来る潮のなかを慌てて駆け抜けました💨
(すまりん意訳)
現在でも 名古屋港の潮の干満差は2mを超えるほどもありますから 波打ち際をすすむ街道はその時の潮の状況によって経路が変わったのだろうと思われます
では 桶狭間決戦当日はどうだったかというと...
「浜沿いから進めば程近いが 潮が満ち入り 馬が通れず 熱田から上手の道を馬を急がせて駆けられ…」と言った内容が『信長公記』に書かれているようです
満潮だったので少し遠回りしたようですが ここに書かれる「上手の道」の正確なルートは不明です
現在では該当する道もないので すまりんたちは旧東海道に沿って進むことにしました
次はちょっと長丁場 ... 野並の交差点まで 6.5㎞の道のりです
熱田神宮伝馬町の交差点
照りつける日差しに疲労が増しますが 花に癒されました💛
車の多い国道1号線沿いは つらい道のりです
道の左側を進んでいたら…
歩行者通行禁止!
がっくり肩を落としても"いかり肩"のすまりん(笑)
200mも後戻りして 迂回することになりました^^;
あとから見返すと 手前に何か所か警告の看板があったようですが 他の道路標識と紛れて全く気付きませんでした (>_<)
気をとりなおして再スタートです
歩き続けて5時間🐾🐾
こちらは白毫寺というお寺
この付近はむかし 松巨島とよばれる半島状の地形だったそうで 白毫寺のある場所は海に面した高台でした
本堂の裏に 「年魚市潟(あゆちがた)勝景」という景勝地だったことを示す石碑が建てられています
万葉集の歌碑⤵
かつて この一帯に広がっていた干潟は「あゆち潟」と呼ばれました
愛知県の地名はこの名に由来します☝
今では生い茂る雑木の向こうに連なる民家の屋根を見下ろすばかりですが 当時は干潟に沈む美しい夕日が見られたことでしょう...
東海道をさらに進むと 石碑を発見!
ここから東海道はさらに南に下っていくのですが 中世には天白川に沿って 満潮時には海が寄せる入り江になっていたと考えられています
当然信長も湾に沿って迂回したものと思われますが 海がどの辺りまであったのかはっきりしないため ルートには諸説あるようです
すまりんたちも東海道を離れ この鎌倉街道を東へ進むようにしてみました
天白川を越えます🐾🐾
照り付けるアスファルトは目にも足にもこたえました(>_<)
当時は海の入り江だった場所です
野並に到着!
正午にKFCの前にたどり着きました👀
筋肉の超回復のためにタンパク質補充です✨
今回は 食べやすい骨なしチキンです
殿も のどがかわいたにゃー
のぶにゃがさま ごめんなさい! 氷しか残ってません^^;
ここからいよいよ前線の砦に向かいます🐾🐾
.. .続