前編からの続きです⤵
今回は ❷ ❸のお話をさせていただきますね
❶ 賤ケ岳の主戦場
❷ 柴田勝家の本陣 玄蕃尾城
❸ 羽柴秀長の本陣 田上山砦
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❷ 柴田勝家の本陣 玄蕃尾城
「賤ケ岳砦」を見学後 余呉湖畔の駐車場に戻ってきたすまりんたち...
ここからは車で北へ向かい 柴田勝家が本陣を置いた城「玄蕃尾城」を訪ねます
”北国街道 国道365号線"はまっすぐ北に延び 栃ノ木峠を越えて福井県武生へと至りますが 並行する"北陸自動車道"は柳ケ瀬トンネルで西へ進路を変え敦賀市へ向かいます
玄蕃尾城へは「柳ケ瀬トンネル」の滋賀県側で国道365号から 北陸自動車道に並行する細い県道に入ります🚗
県道の柳ケ瀬トンネルはとても細くて 交互一方通行の信号があります
延々と続く細く暗いトンネルは 異世界への入り口のようです✨
ようやくトンネルを抜けると すぐに右折!
玄蕃尾城の標識があって 安心しました(*^^*)
さらに右折し 北陸自動車道の上り線と下り線の高架の間の山道を進みます🚗
対向車が来ないことを祈りながら...
この道で本当に合ってる?と思う頃に 標識がありました!
行き止まりが広くなっていて 数台の車がとめられる駐車場と 簡易トイレがありました
ここからは歩いて城跡に向かいます🐾🐾
お決まりの記念撮影📸
ちいさな須磨は ちょっとおてんばな感じです(笑)
この道は 古来から敦賀と畿内をむすぶ重要な峠道のひとつでした
今ではすっかり廃れていますが 明治天皇の北陸行幸にもこの道が使用されたそうです
峠の切通しから 街道をそれて尾根筋に進むと「玄蕃尾城」に至ります
玄蕃尾城は 近江と越前の国境に位置していて 東に北国街道を 南に刀根越えの街道を見下ろす交通の要衝にあります
柴田勝家と羽柴秀吉の対立にともない 国境の守りとして勝家が築きました
玄蕃尾という名は当時のものではなく ここから前線の行市山砦まで 佐久間”玄蕃允”盛政によって尾根道がひらかれ のちに地元民から「玄蕃ヶ尾」と呼ばれたことから転じて 本陣の城も「玄蕃尾城」と呼ばれるようになったといわれます
峠の切通しから急坂を登って…
今度は 広くなだらかな尾根筋を進みます🐾🐾
ここはまだ城内ではありませんが 数千人以上の軍勢が駐留するような場合には このあたりにも雑兵たちが仮小屋を組んで寝泊まりしたと思われます
テント⛺が無数に並んでいるような想像をしてしまいました^^;
峠から10分あまり... 駐車場からは15分ほど歩いて 到着です🚩
玄蕃尾城は 記録には残されていましたが長らくその場所は不明で”幻の城”とされてきました
1980年になって地元の郷土史家によって発見されたという アンコールワットのような遺跡です✨
賤ケ岳の戦い後に廃城となりそのまま放置されたため 織豊期の城郭の様子が手つかずのまま残された貴重な城で「続日本100名城」の140番に指定されています✨
※「続日本100名城」の番号は 101番からスタートします(^_-)-☆
見えてきたのは大手虎口(南虎口)
上り坂の虎口で 右側から横矢を受けながら登る形になります
貴重な遺構に興奮冷めやらぬすまきが 鳥瞰図を描いてくれました(*^^*)
これで 現場の地形が伝わるでしょうか...
ちなみに「虎口(こぐち)」というのは城郭用語で 「小口」から転じたものだそうです
お城の入り口は攻めにくいように小さく作られるためにそう呼ばれました
真っすぐの壁に門や木戸が構えられているだけの単純なものは「平虎口(平入り)」と呼ばれ 攻めにくいように「喰違(くいちがい)虎口」「桝形(ますがた)」「馬出(うまだし)」などの種類が生まれました
すまき ご苦労様... (*^^*)
玄蕃尾城の大手虎口は「坂虎口」といって 上り坂で攻めにくくしてあります
大手虎口の坂を登りきったところにある広場が 大手郭(おおてくるわ)です
※郭や虎口の名称は 便宜上つけられたもので当時の名前ではないと思われ 表記も統一されていません
さらに進み→→
大手郭から東虎口・虎口郭の方向を見たところです⤵
幾重にも重なる土塁が良く残っていました(*^^*)
虎口郭の前面に「堀」が切られているのが見えました
城巡りを始めた頃は 道中続く城マニア(=すまき)の講義がちんぷんかんぷんでしたが💦 最近は特訓の甲斐かずいぶん城目が効くようになったすまりんです(笑)
東虎口へと折れ曲がります🐾🐾
大手の坂虎口を見下ろす虎口郭の土塁
コの字型になっています(^_-)-☆
虎口郭から 主郭へ向かいます🐾🐾
正面の土盛りは 大手側の馬出(うまだし)の土塁です
「馬出」は 大手側と搦手(からめて=裏門)側の2か所にありました
馬出の土塁と堀を真横から見たところ
馬出というのは 虎口の外側に設けられたコの字型または半円形の防塁構造のことですが…
すまきによれば
「馬出」は守るよりも むしろ城から攻めだすための構造なのではないかということ...
籠城する場合 ただただ城に閉じこもるだけでなく 撃って出る場面もあります
でも「平虎口」から不用意に出撃すると 敵の矢や鉄砲で集中攻撃を浴びて各個撃破される恐れがあります💦


いっぽう
虎口の前に衝立のような防塁を一枚置いておけば それで矢を防ぎながら出陣できます
こうした防塁を「一文字土居」といい 虎口の外側に設けたものを「芎(かざし)土居」といいます☝
すまきが言うには この「芎土居」を発達させて堅固にしたものが「馬出」ではないかということです...
ちなみに 虎口の"内側"に設けたものは「蔀(しとみ)土居」とよばれ 防御に主眼を置いたつくりで やがて桝形に発展していくのだろうと...
「馬出」は北条氏や武田氏が多用し 東日本に多く分布していて 近畿圏以西では織豊期に築かれた近江・越前の城郭群以外はほとんどみられません
こちらが馬出の内部です
馬出の側面の土橋に立ってみました(^_-)-☆
右方向が主郭で 高い土塁と深い堀に囲まれています
馬出から主郭への土橋
ふりかえって主郭から馬出を見たところ⤵
このお城のいちおしスポット✨ 馬出の構造がよくわかりますね!
この城の馬出は非対称にアレンジされていて 虎口を守るというよりは 五稜郭などの星型要塞にみられる稜堡(三角形の先端)のように 十字砲火をかけるための堡塁のような役割も考えていたのかもしれません...(すまき談)
主郭に入ります
入り口付近の土塁は幅が厚くなっていて 櫓門のような構造物があったのではないかと推測されています
広い主郭には 勝家の御座所などが建てられていたと思われます
急ごしらえの陣城 (じんじろ) としては 相当につくり込まれています✨
いずれは恒久的な城として使う予定だったのかもしれませんね...
主郭の北東隅には 櫓台の跡がありました
天守に相当する物見櫓が建てられていたと思われます
礎石?? それにしては小さいでしょうか...
櫓台から見下ろした主郭
全周を土塁に囲まれています
櫓台の奥は…
↓ ↓ ↓ 深い堀になっていました
その向こうは「張出郭」という帯郭状の細長い郭です
こちらは 搦手側の「馬出」
堀に挟まれた土橋を渡って 搦手口まで行ってみます🐾🐾
搦手の郭は最大の広さをもち 物資の集積所などが置かれていたと考えられています
搦手虎口(北虎口)
搦手の土橋
堀の外側に 麓へと下る道が続いています
こちらは越前方面になるので 2連続虎口がある大手口と違って防御は薄めです
それでも 切り立った斜面は敵を寄せ付けない感じがしますね↘↘
矢印のコースで 主郭のほうへと戻りました🐾🐾
ここは搦手側の馬出への土橋
主郭北西隅の土塁と堀です
全て保存状態が良いのには びっくりしました!
主郭には入らず 堀の外側の細い通路から外縁を巡って「張出郭」に行きます
こちらは主郭にあった櫓台の土塁を外から見たところ⤵
主郭から張出郭への土橋
張出郭の南端は少し広く 見張台となっています
谷筋を南北に走る 北国街道を見通すことができました
向こう(南側)が 先ほど歩いてきた「賤ケ岳」の方角です
玄蕃尾城…
コンパクトながら変化に富んだ縄張りで 山城ファンに好まれるのもわかるような気がしました (*^^*)
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❸ 羽柴秀長の本陣 田上山砦
このあと 北国街道を南へ下り🚗「田上山砦」を見学しました
JR木ノ本駅前の駐車場に車を置きました
目指す田上山は 木ノ本の町のすぐ背後にあります
山城に登る前に お昼を仕入れておきます(^_-)-☆
滋賀県名物 サラダパンで有名な「つるやパン」は木ノ本にあるのです
店内には サラダパンのデザインのエコバッグ・トレーナー・信楽焼などもありました


サラダパンとカステラサンド を購入(^_-)-☆
店の前を通る北国街道は かつての宿場町の面影を今に残しています
案内板はなさそうなので ネットの情報をたよりに山に向かいました🐾🐾
途中... 実はここに案内板があったのですが⤵
気づかず 右へ行ってしまい ずいぶんと大回りすることになりました💧
不法投棄禁止のほうに目が奪われていたのでしょうか…
谷筋の道を山のむこう側まで登ってから 尾根筋を戻って来るルートを歩くはめになりました^^;
ここから折り返して南へ向かい「田上山砦」を目指します🐾🐾
ここは砦ではありませんが 小さな田上山に羽柴秀長旗下の1万5千の兵が詰めていたそうですから こうした尾根筋の平坦地には雑兵たちが寝泊まりしていたのだろうと思います
ようやく案内板にめぐりあいました!
「横矢桝形」と書かれています
ここは田上山砦の最も北側の 北外郭と呼ばれる曲輪の入り口にあたります
下の地図の右端です⤵
北外郭⤵
土壇状の遺構が残されています
北外郭から主郭へ向かう長い緩斜面は兵の駐屯地であったようです
いよいよ砦の中心部です
こちらの土塁は 北郭の虎口に設けられた角馬出(かくうまだし)です
図の❸北郭(現在地)の右にあるコの字構造が「馬出」です
北郭から馬出を見たところ⤵
土塁がコの字になっているのがわかります
北郭
北郭と主郭の間に堀切があり 土橋⤵が通路となっていました
主郭
ここに羽柴軍の事実上の総大将であった 秀長( 秀吉の弟 )の陣がありました
来年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公ですね(^_-)-☆
これで 今回の目標の砦を制覇✨
ちいさな須磨も落ち着きました(笑)
大回りのせいで遅めになりましたが お昼をいただきます
椅子が置かれてありましたので ちょっとお借りして…
「つるやパン」で買ったパンを すまきと半分こしました
"サラダパン"はコッペパンに千切りたくあんとマヨネーズを挟んだ ちょっと斬新な総菜パンなのですが 意外にパンとたくあんがよく合うのです💛
カステラサンドをチェック中の須磨(笑)
カステラサンドは甘くて 疲れた身体にしみました(*^^*)
こちらは主郭から 西郭を見たところです⤵
西郭は 図の❹にあたります
突貫工事の陣地とは思えないほどきちんと整備されています!
もともと小さな砦跡があった場所に築城したのかもしれませんが それにしても重機もない時代に 短期間で山の上にこれほどのものを築くとは 当時の(旧織田軍の)土木工事のレベルは目を見張るものがありますね👀
主郭の西側切岸の横の道を 南へ下ります🐾🐾
ついでに 主郭の一段下の土塁を登ってみました
こちらが南郭です⤵
土塁の外に 南郭の標識がありました
下から見上げると 南郭・主郭と階段状になっているのがわかります
さらにずっと下ったところに「南堀切」がありました
当時は全山木が伐採されて周囲が見晴らせたと思いますが 今は木が生い茂ってあまり眺望はありません
下り道で木が途切れたところから西を望むと 今朝歩いた賤ケ岳の稜線が一望できました
秀長はここから佐久間盛政の急襲を睨みながら 兄(秀吉)の帰着を待っていたのでしょうか...
ようやく麓におりてきました
意冨布良(おほふら)神社が 紅葉に染まっていました
2024年はいつになく遅い紅葉で
この冬の賤ケ岳はまれに見る深雪に閉ざされました
越前へと敗走した勝家は 北の庄城を秀吉の軍に囲まれ お市の方とともに最期を迎えることとなります
・・・・・
今回のてくてくシリーズはここまでですが
勝家たちのその後を少し追ってみます(^_-)-☆
北の庄城の正確な場所は 長らくわかっていませんでしたが 実は江戸期に築城された福井城に上書きされる形で その下に遺構があることが発見されました
福井城の南端近くに位置した日向門付近の石垣遺構の近くに…
北の庄城の堀跡と石垣が残されています
公園内にある柴田神社付近に北の庄城の天守があったと伝えられているそうです
神社横にも 石垣遺構がありました
石垣は福井城築城の際に取り去られ 根石のみが残されているということです
北の庄城址資料館に 柴田勝家とその妻 お市の方の辞世がありました
こちらが柴田勝家像
前夫 浅井長政の小谷城落城の際には生き残ったお市の方ですが 今回は夫と共に命を絶ちました
お市の方と 残された三人の娘の像
左から 茶々・江・初姫だそうです
館内にあった賤ケ岳合戦図屏風
中川清秀の大岩山砦を攻めた佐久間盛政の様子が描かれています
敗走後に捕えられた佐久間盛政は 武勇を惜しんだ秀吉に肥後一国を与えるから仕えるように求められましたが「斬首せよ」と固辞したそうです!
一方 盛政に討ち取られた中川清秀には二人の息子がいました
秀吉は虜にした盛政を好きにしてよいと言いましたが「勇敢に戦った者同士 生き死には天命なので恨みなどありません」とこれを断ります
これを聞いた盛政は感動し 自分の娘を清秀の息子に嫁がせるように遺言して 処刑されました
豊後岡藩初代藩主となった中川秀成の正室は 父の仇である佐久間盛政の娘 虎姫で 嫡子久盛(2代藩主)はじめ7人の子に恵まれたそうです
ただ 姑(清秀の妻)には嫌われたため 九州に下向することは一度もなく 終生畿内で暮らしたということです
豊臣秀吉が信長の後継者としての地位を確かなものとし 天下人への道をひらいた賤ケ岳合戦…
壮大な陣城群をめぐるウォーキングは とても見ごたえがありました✨
次回は 琵琶湖畔にある素敵なホテル