すまりんの てくてく ふたり旅

部屋付き温泉のある素敵な宿と美食を求め 夫のすまきと全国飛び回ります!

「賤ケ岳の戦い」の舞台を歩く(前編)

すまきとすまりんの てくてくシリーズ🐾🐾

今回歩くのは 滋賀県賤ケ岳(しずがたけ)です

羽柴秀吉柴田勝家が激突した「賤ケ岳の戦い」の舞台 ⚔

琵琶湖の最北部にある戦跡を巡ってみます(^_-)-☆

賤ケ岳の戦いでは 羽柴軍5万 柴田軍3万の兵力が集結したといわれています

主将の秀吉勝家に加え 丹羽長秀佐久間盛政前田利家など 城持ち大名クラスの大部隊同士が布陣して対峙しただけあって 戦場はとても広範囲に及びます!

※すまき撮影の航空写真です

 

戦場が広すぎて全部を歩くことは無理なので 3ヶ所に絞って歩いてみます

 ❶ 賤ケ岳の主戦場

 ❷ 柴田勝家の本陣  玄蕃尾城

 ❸ 羽柴秀長の本陣  田上山砦

  ※ ❷❸ のお話は後編でさせていただきますね

 

 

❶ 賤ケ岳の主戦場

戦いのハイライトは 余呉(よごこ)の周辺で繰り広げられました ⚔

余呉湖畔に車をとめ P  尾根伝いに南の賤ケ岳を目指し そこから湖畔に下りて戻ってくる 一周9km弱の周回コースを歩きます(赤いライン)

 

余呉湖観光館の前に 広い駐車場がありました

季節は2024年の晩秋... 

長い夏が終わり 一気に冷え込んできました

 

今回もちいさな須磨と一緒です(^_-)-☆

ちいさな須磨は2022年にお空に行った愛猫の分身

 

すぐ近くの登山口に向かいます🐾🐾

 

7:20  登山開始!

ゆるやかな上り坂を進むと…

 

ほどなく「岩崎山砦」に到着しました

岩崎山砦には 羽柴方の高山右近が詰めていました

2017年にローマ教皇から「福者」(聖人のひとつ前の位)に認められるほど 敬虔なキリシタン大名だった高山右近キリシタン追放令で国外追放され マニラで生涯を終えた人です

当時は摂津高槻4万石余の城主でした

 

北の福井県側から押し出してくる柴田勢に対するように 字状にウイングを広げた形状になっていますね...

登ってくる敵に対して横矢(十字砲火)がかけられる構造です

 

こちらの尾根筋が「西出郭」 ※上図では左端にあたります

 

主郭の方に行ってみます🐾🐾

 

南北が逆になった図がありました(※下が北です)

賤ケ岳の戦跡は各所に丁寧に解説がされてあって とてもわかりやすいです

 

こちらは上図のの犬走りの部分にあたります

主郭と出郭を繋ぐ 通路にあたる部分です

岩崎山砦は 恒久的に存在した砦ではなく 戦いの際の陣地として 突貫工事で作られた砦になります

ウクライナ戦争で築かれた塹壕陣地のようなものですね...

城郭用語では「陣城(じんじろ)」とよびます

 

こちらが主郭ですが 雑木が茂ってあまり展望はありません💦

木の柵や逆茂木(さかもぎ)で囲われ 丸太を組んだ物見櫓などがあったのかもしれません

 

木々の間から 向かいの山が見えました

あちら側には 行市山砦や別所山砦があり 柴田方の佐久間盛政前田利家が陣取っていました

 

興奮して写真を撮りまくる城マニア(笑)

 

守将の高山右近は およそ1000人の兵力でここを守っていましたが 佐久間盛政率いる1万の軍勢の奇襲をうけて背後の大岩山砦が陥落したため 砦を放棄し 山を下って木ノ本へ撤退しました💨

 

むこうに続く削平地が 東出郭です

 

さて 賤ケ岳まで まだ3.2km💦  先を急ぎます💨💨

長い尾根をゆるゆる登って行くので ちょうど良い感じの有酸素運動です

尾根筋の稜線上の一本道が続きます...

 

林道に出ました

このままこんな道で距離をかせげるといいけれど...

 

すぐに登山道に戻りました^^;

 

まもなく「中川清秀の墓」の案内がありました

ここが 大岩山砦の跡になります

中川瀬兵衛清秀高山右近のいた高槻のお隣 摂津茨木城主でした

本能寺の変で信長が討たれた後の「山崎(天王山)の戦い」では秀吉に味方し 3000の兵を率いて高山右近とともに先鋒をつとめました✨

戦の端緒となる明智方の猛攻を最初に受けた武将です

 

賤ケ岳の戦いではこの大岩山砦を任され  やはり戦の端緒となった佐久間盛政の強襲を受けました💦

激戦地の大当たりを引く人のようです...

 

ここで賤ケ岳の戦いまでの経過をまとめてみます(^_-)-☆

 

本能寺の変により 織田家は当主の信長だけでなく嫡男の信忠も失って 幼い嫡孫の三法師と あまり有能とは言えない次男以下の子どもたちだけが残されることとなりました

 

このため 織田家の有力家臣たちは誰が主導権を握るかで 火花を散らすことになります

 

なかでも筆頭家老だった柴田勝家と…

(頭に鳥がとまった写真で 勝家さま申し訳ありません…💧)

 

いち早く明智光秀を討って仇討ちを果たした羽柴秀吉が…

大阪城内の豊国神社にある豊臣秀吉像... こちらは鳥ではなく髷です 笑)

 

今後の主導権を争うこととなり ついに衝突する事態に発展したのです⚔

 

天正11年(1583年)5月3日 越前 北ノ庄城(現在の福井城)を出た柴田勝家は 佐久間盛政・前田利家らとともに3万の軍勢を率いて近江国に向かいました

一方の羽柴秀吉は5万の兵で 木ノ本に布陣して迎え撃ちます

 

双方にらみ合いのまま戦線が膠着するなか

遠く離れた岐阜で織田信孝が  伊勢で滝川一益が挙兵し 秀吉に叛旗を翻しました

3方面作戦を強いられることになった秀吉は 弟の秀長に留守を任せ 1万5千の軍を引き抜いて 自ら岐阜へと向かいました💨

(※揖斐川の氾濫で岐阜まで行けず 大垣城に入りました)

これを好機とみた勝家は攻勢に出ます!

 

6月9日の早朝

ひそかに行市山砦を出た佐久間盛政隊1万は 余呉湖西岸を迂回して大岩山砦に駆け上り 中川清秀に攻撃を仕掛けました⚔

 

佐久間盛政柴田勝家の姉の子で 叔父の勝家とは父子のような関係だったそうです

勝家に対する忠誠心も高く 戦(いくさ)巧者でした✨

 

余呉湖畔の「尾野呂が浜」に 最初の火蓋が切られた場所の説明板がありました

 

大岩山砦を守る中川清秀も「鬼瀬兵衛」といわれるほどに武勇の人で 一時は佐久間盛政の軍勢をふもとの余呉湖畔まで押し戻しましたが 劣勢いかんともし難く 討死となり 大岩山砦は陥落しました

 

大岩山砦の写真に戻ります...

 

こちらが坂虎口とよばれる 「城の入り口」にあたります

中川清秀はこの坂の途中で戦死したといわれますが 討ち取られたのは身代わりとなった弟の中川淵之助で 清秀は本丸で自害したともいいます...

 

坂道を登りきったところが「二の郭」その奥が本丸に相当する「詰郭」だそうです

 

こちらが詰郭

中川清秀の立派な墓がありました

中川家はこの後も紆余曲折を経ながら生き残り 豊後岡(竹田)藩7万石の領主として 明治維新まで続きました

豊後竹田といえば 滝廉太郎のふるさと...

岡城(豊後竹田城)は「荒城の月」のモデルとして有名ですね(^_-)-☆


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大岩山砦も 岩崎山砦と同様に突貫工事でつくられた陣城ですから 恒久的なお城ではありません

こちらが上案内図の二の郭東虎口だと思いますが 土塁の外にあるという犬走りも痕跡のようで 城マニアのすまきにもわかりにくかったようです💦

 

ハイキングコースに戻って 賤ケ岳へ先を急ぎます💨💨

最近 熊のニュースが多いので 怖かったです^^;

 

朝日の差し込む杉木立の中に…

ぎょっとする案内板が立っていました👀💦

「首洗いの池」

中川清秀の首を洗った池が この下にあるようです😱

 

行かざるをえません(笑)

数十m下ると 池の跡がありました⤵

水はありませんが 池の痕跡がありました

この葉っぱ もしかしてワサビでしょうか?

ちょっと採る気にはならないですね(笑)

 

 

大岩山砦を占拠した佐久間盛政は 岩崎山砦の高山右近を駆逐し さらに賤ケ岳砦にも迫ります

賤ケ岳の守将 桑山重晴は敵わぬとみて撤退を始めますが ちょうどその時 琵琶湖の向こうの坂本から 丹羽長秀の2000の援軍が船で到着しました!

加勢を得て再び賤ケ岳砦に戻り 佐久間盛政とにらみ合いになりました

 

そんななか13里(52km)離れた大垣城にいた秀吉は 大岩山砦陥落の報を聞き 直ちに軍を返しました💨

有名な「美濃大返し」です!

秀吉は 途中の村々にたいまつを焚かせて道を照らし 道々におにぎりを準備させて兵を走らせました

午後2時頃に大垣を発って 午後7時頃には先頭が近江の現地に到着したといわれます

1時間に10.4kmのペースは マラソンでもかなりハイレベルなスピードだと思いますが 重い具足を着て武器を持って 非舗装の道を走るのですから大変な速さです👀

 

柴田勝家は 秀吉はこういうことをすると危惧し 佐久間盛政に「一旦引くように!」と何度も使者を送っていたのですが あと一歩で賤ケ岳砦を落とせそうな盛政は そんなことはあり得ないと動かなかったそうです💦

 

日も暮れて山の上からの撤退もままならないところ まだ暗い未明に秀吉の軍勢は 弟・秀長の部隊とともに盛政隊へと攻めかかりました

 

大岩山から賤ケ岳に向かう尾根線上に「猿が馬場」という場所があります

秀吉はここまで斜面を登ってきて 指揮をとったようです

戦巧者の盛政は 大軍を相手に奮闘✨

秀吉は 盛政の実弟で 勝家の養子である柴田勝政に攻撃対象を変更します

盛政は撤退戦を支援しつつ 両軍は激戦となりました⚔

 

賤ケ岳まであと2kmのようです

2系統の案内板の距離が微妙に違っていました^^;

 

だんだん急になってくる坂を登って行きます🐾🐾

 

山頂まで あと少し!!

 

ようやく色づき始めた紅葉が 朝日に輝いていました✨

 

木々の間に青空が目立って来ました

 

8:48 到着です🚩

登山口からは1時間半くらいかかりました

 

頂上のトイレは冬季は閉鎖されているようです

 

広い削平地がありますね

賤ケ岳の頂上一帯が かつての「賤ケ岳砦」でした

 

奥琵琶湖を一望できる 素晴らしい眺めは 当時と同じはずです...

竹生島がくっきりと見えていますね!

 

南東側の山の連なりの間を抜ければ 関ヶ原を越えて濃尾平野へと続いています

秀吉はあの向こう側から猛スピードで駆けつけてきたのです👀

 

右側に尾根を長く伸ばした特徴的な山影は 浅井長政小谷城(おだにじょう)

 

さらに左に目を移すと 木ノ本の街並みが見えます

ここで休息した秀吉軍が 一気に攻め上がってきました💨💨

この時に活躍したのが のちに「賤ヶ岳七本槍」といわれる7人...

加藤清正福島正則加藤嘉明平野長泰脇坂安治糟屋武則片桐且元

足軽から成りあがった秀吉には 他家のように累代の家臣がおらず 子飼いの武将を喧伝するために七本槍の話が広められたともいわれます

平野長泰は大名になれず 糟屋武則は一瞬だけ加古川1万2千石の大名となりましたが 関ケ原で改易となったので 国持ち大名の加藤清正福島正則などに比べると あまり有名ではありませんね

徳川の天下になると秀吉子飼いの大名たちは次々と取り潰され💦 明治まで直系で存続できたのは 脇坂家(竜野藩5万3千石)だけでした

 

腰曲輪的な場所を利用して 合戦の語り部コーナーがありました

誰もいないこんな寒い時に語り部ガイドが開かれるわけはありませんね💧

 

北側の余呉湖を望むこちらの場所に 賤ケ岳の三角点がありました

 

余呉湖は琵琶湖の北東にある小さな湖で 琵琶湖の「よこ」にある湖ということから名づけられたという説があるそうです

周囲を山に囲まれた小さな湖は かつて合戦があったとは想像もつかないほど 鏡のように静かなたたずまいを見せています...

 

早朝から登ってきた長い尾根道…

ここに岩崎山砦と大岩山砦がありました

当時は伐採されて木はほとんど無かったものと思われます

 

北へと向かう谷筋を 北国街道が通っています

中央を横切る長い尾根が 秀吉側の最前線防衛ラインでした

(街道も土塁で封鎖していたようです)

そのすぐ向こう側まで柴田勝家本陣が進出して 秀吉軍を牽制していました

 

奥の方の山が 最初に佐久間盛政が陣を置いていた行市山砦でしょうか...

湖に近い手前の尾根線上には 前進してきた前田利家が陣を敷いていました

 

激戦のさなか 衝撃の事態がおこります!

柴田側の前田利家の軍勢が 苦戦の佐久間隊を救援することなく 突如として撤退をはじめたのです!!

は早くから 秀吉に調略されていたと考えられています💦

堂木山砦・神明山砦方面の羽柴方への抑えが失われ 退路を断たれるかたちで盛政・勝政兄弟は窮地に陥りました💧

 

戦場は余呉湖西岸へと移っていきます...

すまりんたちも 山を下って 余呉湖畔に向かいました🐾🐾

「ウォンテッド」の振付のようですが(笑)...

すまきの手にちいさな須磨がいたものと思われます

 

下り道なので らくちん(*^^*)

 

ここが 飯浦(はんのうら)切通

左に行くと琵琶湖畔の飯浦  右に行くと余呉湖に出る 峠の位置にあたります

ここに本陣を置いていた柴田勝政隊は 秀吉旗下の部隊と激戦を繰り広げました

今も残る石垣の跡は 当時の防塁の名残でしょうか...

 

余呉湖までは400m ...一気に下ります💨💨

 

湖畔に出ました(*^^*)

誰もいない湖は とても静かでした

湖面に雲が映って 綺麗です✨

ちいさな須磨は それよりも鴨に夢中(笑)

 

苦戦する弟( 勝政 )を救おうと 一旦本隊を余呉湖北側の峠まで撤退させていた佐久間盛政は再び引き返してきて 余呉湖西岸は大乱戦になりました⚔

しかし田利家が撤退して 殺到する敵軍に挟まれることとなり💧散り散りに敗走せざるをえませんでした

 

佐久間盛政の軍を撃破した秀吉の軍勢は柴田勝家本隊に向かいます

勝家の軍勢は総崩れとなり 越前へと敗走していきました...

 

余呉湖畔をめぐって 再び駐車場に帰ってきました

歩行距離8.6km ちょうど3時間のコースでした(^_-)-☆

 

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