その主峰 茶臼岳(標高1915m)は日本百名山のひとつで 気象庁の常時観測火山に指定されている活火山です🌋
すまりんたちは 2004年に登頂しました(^_-)-☆
実はロープウェイがあるので 9合目の山頂駅から手軽に景色を楽しめるのですが そこから登頂するには片道1時間ほどの登山が必要です
こんな格好のまま頂上まで登ってしまう人は珍しいかもしれません💦
背後の完全装備の人たちと比べて 場違いです^^;
同じく すまきも ⤵(笑)
若気の至りでしょうか(笑)
ところで...
この茶臼岳の麓に広がる那須高原に 今なお火山性ガスを噴出させる谷があります
そしてこの谷には「殺生石」という世にも恐ろしい名前の石があるのです!
ここは 那須湯本温泉♨からほど近い場所でもあります
すまりんたちは「殺生石」を見物しようと雨霧にけむる遊歩道を登って行きました🐾🐾
この辺りは有毒な火山ガスが絶えず噴出していて「鳥獣がこれに近づけばその命を奪う殺生の石」として古くから知られた名勝でした!
松尾芭蕉もこの地を訪れたそうで「蜂・蝶のたぐひ 真砂の色の見えぬほどかさなり死す」と記し「石の香や 夏草赤く 露暑し」と詠んだことが おくのほそ道にも書かれています
賽の河原を彷彿とさせる お地蔵さんの群れ…
「教傳地獄」と記されています
かつては火山性の活動が今よりもっと活発だったようです
「殺生石」が見えてきました!
しめ縄がかけられているのが「殺生石」です
近年でも イノシシの死骸が発見されるなど ガス濃度が濃くなると危険なこともあるようで 幼児やペットを連れての見学には注意喚起がなされています
ところで
「殺生石」の由来には壮大なお話があります!
昔 中国やインドで美しい女性に化けて悪行を重ねていた白面金毛九尾の狐が今から800年ほど前 日本に渡来しました... と書かれています
まずは「妖獣 九尾の狐🦊」にまつわる興味深いお話を いくつかご紹介します(^_-)-☆
①今から3000年前の古代中国...
殷王朝の最後の王「紂王(ちゅうおう)」は 「妲己(だっき)」という妃を寵愛しました
妲己は王をそそのかして民に重税を課し 自らは贅沢を尽くしました
庭園の池に酒を満たし 肉を掛けて林にしたという「酒池肉林✨」の語は 妲己と紂王の故事によります☝
妲己と紂王の話は 宮城谷昌光先生の「太公望」や「王家の風日」にも描かれています
妲己はまた 油を塗った銅の柱を火の上に渡し 真っ赤に熱されたその上を人に渡らせる「炮烙の刑」を見て楽しんだと伝わります😱
実は彼女の正体は 齢千年を経た妖獣 九尾の狐で 王妃の身体を乗っ取っていたというのです!
周の武王によって殷は攻め滅ぼされ 妲己は殺されたのですが…
②その数百年後のお話
古代インドにあった耶竭陀(マガダ)国にいたという斑足太子(はんぞくたいし)は王位を継いだ後 999人を殺してその首を集めたといいます😱
それをそそのかした華陽婦人も 九尾の狐であったといいます
③そしてお話は再び中国へ戻ります
武王の12代のちの周の幽王は 褒姒(ほうじ)という妃を寵愛していました
褒姒は笑うことがありませんでした
絹を裂く音を聞いて彼女が微笑んだことから 幽王は国中の絹を集めては引き裂かせたといいます^^;
ある日 間違ってあげられた緊急招集の狼煙に駆けつけた将兵が 何事もないことに困惑するのを見て 褒姒は初めて笑いました
喜んだ王は 以後 何もないのに烽火を上げさせることを繰り返し^^; やがて反乱軍が迫った時にあわてて烽火をあげましたが 誰も集まらず殺されます💧
この褒姒も九尾の狐が化けたものでした
褒姒の話も 宮城谷先生の短編集「沈黙の王」の中で『妖異記』と『豊饒の門』に出てきました
④そして時代は下り 唐の玄宗皇帝の時…
遣唐使として入唐していた吉備真備(きびのまきび)は 第10次遣唐使の帰国に伴い 多数の文物とともに日本へ戻りました
ところで 彼の乗る遣唐使船には「若藻」という15歳ほどの少女がいつの間にか乗船していたのだそうです...
そして 真備が日本にたどり着くと いつの間にか少女はいなくなってしまいました
ついに災厄が 日本へと上陸してしまったのです😱
⑤400年後...
鳥羽上皇の御世に 「藻女(みくずめ)」という娘が 女官となって上皇に仕えました
「玉藻前(たまものまえ)」と呼ばれるようになった娘は その美貌と博識から次第に鳥羽上皇に寵愛されるようになります✨
鳥羽上皇は 初めて院政を敷いた”治天の君” 白河法皇が没して以後 崇徳・近衛・後白河の3代にわたり院政を行いました
崇徳上皇を冷遇して 近衛・後白河天皇を寵愛することで 保元の乱の原因をつくり 世は源平の争乱へとつながっていきます💦
鳥羽上皇は 現在 京都の安楽寿院に眠っておられます
ところでこの鳥羽上皇に寵愛されたと言われる玉藻前は 正妃である待賢門院(藤原璋子)をおしのけて皇后となった「美福門院(藤原得子)」がモデルだと言われています
上皇の死後も 彼女は女院として勢力をふるい 世は疫病や戦乱の災禍に覆われはじめたと言われます
陰陽師 安倍泰成は その元凶が玉藻前だと見抜き 真言を唱えました⚡
すると 彼女は変身を解かれ 九尾の狐の姿となり行方を眩ましたそうです
🦊💨💨💨
やがて...
那須野に逃れて悪事をはたらいていた玉藻前に対して討伐軍が編成されました
写真は 那須塩原駅前の九尾の狐像
しっぽがもにょもにょしていて ちょっと怖いですね^^;
三浦介義明や上総介広常らの率いる8万人の軍勢が攻撃をしかけましたが 狐の妖術で敗れてしまいます💦
上総広常といえば 鎌倉殿の13人で 佐藤浩市さんの名演を思い出します✨
(すまりんは最初のほうだけ見てました 笑)
将兵は走る犬の尾を狐に見立てて騎射を訓練し 再戦を挑みました
これが「犬追物」のはじまりなのだそうです
討伐軍はついに九尾の狐を追い込みました
三浦介が放った矢が脇腹と首筋を貫き 上総介が長刀で斬りつけたことで息絶えました
「殺生石」から南へ25kmほどの大田原市郊外にある 玉藻(たまも)稲荷神社
討伐軍に追われた玉藻前はセミに化けて桜の木の陰に隠れていましたが 側にあった池(神社の境内にある"鏡が池")に映った真の姿を見つけられ 討たれたのだという話が伝わっています
松尾芭蕉も おくのほそ道で「ひとひ郊外に逍遥して 犬追物の跡を一見し那須の篠原をわけて 玉藻の前の古墳をとふ」と記し「秣おふ人を枝折の夏野哉」と詠んでいます
今は小さな神社ですが 源頼朝も那須野の狩りの際に参詣したといいます
狛狐さんのしっぽは 普通でした⤵


こちらが玉藻前の真の姿🦊を映し出した"鏡が池"
神社から北へ600mほどの県道沿いに「狐塚之址」碑があります
「那須郡誌」によれば かつてここに狐塚と呼ばれる円い塚があり九尾の狐の屍を埋めた場所だと伝えられていたそうです
昭和の初め頃に開墾されて今は見る影もありませんが 開墾で塚を崩した時 中から直径一尺(30cm)くらいの 底が平らで浅い焼き物の瓶が出てきたといいます
骨壺だったのかもしれませんが 中は土だけだったそうです
残念ながら お話はまだ終わりません...
九尾の狐の魂は 「巨大な石」にとりついて毒石に変化し 近づく人間や動物等の命を奪うようなりました😱
これが今に残る「殺生石」なのです!
平和な結末(?)を目指して もう少しお付き合い下さいませ(^_-)-☆
境内に「九尾稲荷神社」がありました
こちらの狛狐さんは ちゃんと尾っぽに筋が入っていましたよ(^_-)-☆
「殺生石」はその後も長く人々を苦しめました💦
やがて南北朝時代...
会津の元現寺を開いた源翁禅師がこの地を訪れました
話を聞いた源翁禅師は 毒石の前で一喝して槌で石を叩き割り 玉藻前の霊を成仏させました✨
大工道具の金槌を「玄能(げんのう)」と呼ぶのは 源翁禅師の名に由来するそうです
ラーメンで有名な福島県 喜多方の近く...
会津盆地の北の端に熱塩(あつしお)温泉♨という小さな温泉街があります
あまり温泉街には見えませんね💦
温泉街の突き当りに 源翁禅師が開山し その墓がある「示現寺」があります
熱塩温泉は『禅師が愛用の杖を突き刺したところ滾々と湯が湧き出た』ことに始まるともいわれ 元湯の権利はいまも示現寺が所有しているのだそうです
この時はものすごい雪で 何もかも埋もれていました^^;
山門(総門)も このありさま💦
雪かきをされて 道はありましたが…
肝心の本堂の前に どーんと雪の壁が👀⤵
頑張って乗り越えてみましたが 参拝どころではありませんでした💧
源翁禅師のお墓は 本堂裏手の杉林のあたりにあるようなのですが…
果たして たどり着けるのでしょうか??
なんとか迂回して すまきのラッセルのあとをついて行きます🐾
でも これ以上は危険!と判断して断念💦
左手奥に石塔の頭がちょこっとだけ見えていますが あれでしょうか...
どうやら 来る季節を間違えたようです(笑)
さて
源翁禅師に割られた「殺生石」ですが...
3つに割れて 「高田」と名のつく地に飛び散ったのだそうです!
どこに行ったか 気になりますよね??(笑)
その場所は
石のかけらを追いかけて すまりんたちも那須からず~っと西に飛び 美作国までやってきました
源翁禅師の名前もありますね⤵
こちらの境内に「殺生石」の破片とされる石が残されています
近づけなかったので望遠での写真となります
🔍
立派なしっぽ✨の狐像もありました
お次は 北に飛んで会津…
会津高田にある伊佐須美神社の境内に 殺生石稲荷神社があります
狛狐さんがお迎えしてくれました
こちらは しっぽは普通でした


社殿の裏に「殺生石」のかけらと伝わる巨石がありました!
かけらと言えども とっても大きいですね👀
こんなの飛んできたら びっくりです!
そして 最後のひとつは なぜか"高田"とは関係ない京都
ちいさな須磨が興味深げに見ているのは三重塔のかたわらに建つ小さなお堂
これには謂れがありまして...
源翁禅師は 叩き割った「殺生石」の3つのかけらのうちの一つに地蔵菩薩を刻み "鎌倉" の地に小さなお堂を建てて祀ったのだそうです
(←飛んでいく前に...ということですかね?? 笑)
江戸時代初期に 甲良豊後守宗広という 有名な大工棟梁がいました
徳川幕府の作事方大棟梁として東照宮や寛永寺五重塔の造営に携わった人です
その人の夢枕にこの地蔵尊が現れ『自分を真如堂に移すように...』とお告げがあったのだそうです
甲良宗広はお告げに従い 地蔵尊を鎌倉から京都の真如堂に遷座しました
そのため こちらのお地蔵さまは鎌倉地蔵とよばれるのだそうです
中をのぞくと「殺生石」のお地蔵さまがおられましたが 写真は控えました
これで 飛んで行った「殺生石」のかけらを3つとも見学したことになります(^_-)-☆
そもそも 那須に本体も残っていますし 諸説あるようで...(笑)
調べた限りでは 他の高田の地には 殺生石は残されていないようでした
(正直 ちょっとほっとしたすまりんたちです笑)
ところで!
実は2022年3月までは こういう姿でした⤵
なんと 2022年3月5日に 石が真っ二つに割れてしまったのだそうです!
災厄をもたらすという九尾の狐🦊が現代に再び甦っていないことを祈るばかりです
そんなことはつゆ知らず...(笑)
のんきに記念撮影している場合ではありませんでしたね^^;
殺生石の壮大な物語... いかがでしたか?
取材に苦労しましたが(笑)楽しんでいただけたなら幸いです(*^^*)
次回は
2024年秋に訪れた 鹿児島県「数寄の宿 野鶴亭」のお話です