あいにくの曇天ですが
すまきとすまりんは奈良の東大寺にやってきました
奈良公園の鹿さんが一緒に写真を撮ってくれました💛
圧倒される大きさの大仏殿✨
まだ朝早いので人も少なめです(^_-)-☆
すごく久しぶりに東大寺の大仏殿に入場し 大きな大仏様を拝見しました✨
自由に撮影もできるので ありがたいです(*^^*)
大仏様と すまき
大仏様の高さは15m!迫力があります✨
正式名は「廬舎那仏」
聖武天皇の命で造られ 752年に完成したと言われています
大仏鋳造のための銅が 山口県の長登銅山から運ばれていたお話を以前させていただきました
これは建設当時の伽藍の50分の1の模型です
創建当時の大仏殿は現在よりも大きく1.5倍の幅がありました
しかも 両側の塔は70mの高さがあったということ👀
クレーンもない昔 どうやって建立したのでしょうね
穴くぐり...
建物を支える柱の下に四角形の小さな穴が開いていて 穴をくぐりぬけると厄除けのご利益があるそうです✨
幅30cm 高さ37cm
『無理でしょ』と思うくらい小さく見えました
子どもなら多分するっと抜けられる穴ですが 大人だと躊躇してしまう人が多いかもしれません^^;
実は大仏様のお鼻の穴と同じ大きさなのだそうです
昔 チャレンジしたような記憶もありますが...
だいぶ体型も変わっていますし(笑)
ちょっと緊張しながらトライしてみました(^_-)-☆
まずは すまき
断念(笑)
ちいさな須磨は余裕です(^_-)-☆
※ちいさな須磨は2022年にお空に行った愛猫の分身です
須磨を追いかけて すまりんもチャレンジ (5秒ほどの動画です)
無事 通過しました(^_-)-☆
最近 ちょっとダイエットしたので...(笑)
さて これから奈良の古墳巡りにまいります🐾🐾
以前 堺市の古墳を一日で制覇した時は 35kmほど歩きましたが...
今回は 全コース15kmほどなので 数時間のウォーキングですみそうです(^_-)-☆
天気は回復傾向のようですが まだ曇天💦
時折 雨がちらついていました
寒いからか 鹿さんもおとなしいです
9時すぎ 東大寺の大仏池からスタートしました
ところで 千年の都「京都平安京」は左右対称に整った形をしていますが…
(右京八条九条四坊あたりは湿地帯で造営されなかった説もあります)
※京都市歴史資料館HPより
「奈良平城京」は左京に外京が張り出したりして かなり左右非対称です
そのうえ 都の中に前方後円墳がとりこまれていて面白いです
実は平城京の北辺には 佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群といって 全長200m超級の前方後円墳8基を含む 日本でも有数の古墳群があるのです
平城京の東の端から西の端までずらりと並ぶ古墳を歩いてみます
こちらは東大寺転害門
平重衡の南都焼討と 戦国時代の三好・松永の戦乱で創建当時の主要伽藍のほとんどを失ってしまった東大寺ですが 唯一焼け残った建造物がこの転害門です
脇からくぐりぬけます
正面から見た転害門
天平の香り高き ゆるやかな曲線を描く大棟が美しい門です✨
ここから左京一条大路(佐保路通り)が伸びていて佐保路門の別名があります
佐保川は昔から 白く柔らかな春霞の衣をまとう春の女神に例えられてきました
幕末 当時奈良奉行だった川路聖謨(としあきら)が整備した美しい桜並木がもう少し下流にあります
冬の寒さが解ければ 春の女神の川にふさわしい姿を見せてくれることでしょう
佐保川を渡るとすぐ 最初の古墳が見えてきました
文武天皇と藤原宮子の第一皇子でした
天武天皇の皇后だった鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)は 数多の皇子のなかから最愛の息子 草壁皇子(くさかべのみこ)を皇位につけるため ライバル大津皇子(おおつのみこ)を謀反の罪で自害に追い込むまでしましたが 草壁皇子は皇位につかぬまま亡くなってしまいます
そのため草壁皇子の忘れ形見 まだ3歳だった孫の軽皇子(かるのみこ)が成人するまで 彼女自身が持統天皇として即位します
14歳になった軽皇子を文武天皇として即位させてようやく念願は叶いますが なんと彼もまた24歳で早世してしまいました
草壁の血統を保つため 文武天皇のまだ6歳の息子 首皇子が成人するまで こんどは持統天皇の妹の阿閇皇女(あへのひめみこ)が元明天皇として さらに文武天皇の姉の氷高皇女(ひだかのひめみこ)が元正天皇として中を継いだのです
こうして大事に大事に育てられた首皇子は 24歳で即位し聖武天皇となりました
聖武天皇は生い立ちから あまり幸せではなかったかもしれません
早くに父を亡くしたばかりか 母 藤原宮子は彼の出産後に重度の鬱病に苦しみ彼が36歳になるまで会うことはありませんでした
さらにようやく生まれた跡継ぎ息子は 1歳にも満たないまま夭折してしまいます
皇子を呪ったとされた長屋王に死を命じた聖武天皇ですが 長屋王は無実の罪だったといわれています💧
そして その祟りであるかのように天然痘のパンデミックが日本を襲いました😱
当時の日本の総人口の三分の一が死に 藤原四兄弟を始め 政府高官のほとんどが病死してしまうという未曽有の事態は 恐怖のどん底だったに違いありません
救いを求めた聖武天皇が仏教に傾倒し やがては国家事業として巨大な大仏を建立するに至ったのも理解できるような気がします...
聖武天皇陵の参道には分かれ道があります
こちらが光明皇后陵
聖武天皇陵の東側に寄り添うように造られていますが 拝所の正面に行くことはできません
このすぐ背後に戦国時代 松永久秀の多聞山城が築かれ 郭の一部となったため 聖武陵とともに一部破壊されているようです
幼名を安宿媛(あすかべひめ)といわれた藤原光明子(のちの光明皇后)は 藤原不比等と県犬養橘三千代(あがたいぬかいのたちばなのみちよ)との間に生まれました
生まれたのは藤原京の時代 大宝元年(701年)で 聖武天皇(首皇子)と同い年でした
そればかりではなく 先に書いた状況により首皇子は 母 宮子の父である藤原不比等のもとで育てられた可能性が高く 二人は同じ屋敷に住まう幼馴染だったと考えられます
子どもの頃から心を通わせ 多くの近しい人々の死を共に悲しんだであろう光明子は 聖武天皇の最大の理解者でした
わが背子と 二人見ませば いくばくか この降る雪の 嬉しからまし
(この降る雪を ひとりではなく夫と二人で見れたら どんなに嬉しかったことでしょう)
光明皇后の詠んだ万葉集の歌を見れば 二人の仲睦まじさがよくわかります
聖武の没後 皇太后となってからは 女帝となった娘 孝謙天皇の行く末に心を砕き また聖武天皇の遺愛の品々を 今に残る正倉院御物として大仏に奉納しました
一条通りをさらに西へと向かいます🐾🐾
車通りが多くて歩道が狭いので ちょっと歩きにくい道です
京都へ向かう国道24号(奈良バイパス)を越えます
一条高校の向こうに これから目指すウワナベ古墳が見えています
一条通りを折れて北へ向かうと次第にのどかな田園風景となります
ウワナベ古墳の濠に突き当たりました
全長は255mで日本国内で第13位の巨大な前方後円墳です
ウワナベ古墳は江戸時代ごろまで元明天皇陵と考えられていた経緯で宮内庁が管理しています
※現在は 仁徳天皇の皇后である八田皇女(やたのひめみこ)の宇和奈辺陵墓参考地と訂正されています
仁徳天皇は 異母弟の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と互いに皇位を譲り合いました✨
しかし 異母弟は自ら命を絶ち 仁徳に皇位を譲ったとされています
その時 遺言で『同母妹の八田皇女を後宮に入れてほしい』と仁徳に頼んだそうです
しかし...
仁徳天皇の皇后 磐之媛命(いわのひめのみこと)は嫉妬深く 仁徳天皇が八田皇女を妃とすることを許しませんでした
のちに仁徳天皇が 皇后の留守中に八田皇女を宮中へ入れると^^; 怒った皇后は 仁徳天皇の元を去り 別居したまま亡くなりました💦
その後 仁徳天皇は八田皇女を皇后に立てたといわれています
ウワナベ古墳の西隣に並んでいるコナベ古墳⤵
航空写真でも 二つ並びの前方後円墳がよく見えます(photo byすまき)
左がウワナベ古墳 右がコナベ古墳です
コナベ古墳は 江戸時代には元正天皇の陵墓とみなされていました
仲良く並んでいる姿が 文武天皇の崩御後 聖武天皇即位までの中継ぎとして立った 元明・元正の2人の女帝の陵墓としてふさわしいように見えたのでしょうか
ところで 古語では 夫が新たに別の妻を持つ場合 元の妻を「こなみ」後の妻を「うはなり」と言うそうで ウワナベ・コナベは「うわなり・こなみ」からきているという説もあります!
宮内庁は
ウワナベ古墳を八田皇女の宇和奈辺陵墓参考地 としています
磐之媛命と八田皇女の関係にぴったりだということなのかもしれません
でも 仲の悪いお二方が横並びの古墳に埋葬されたとするとお互いに嫌でしょうね^^;
コナベ古墳 (※この写真では左)の墳丘の長さは204m
全国34位の前方後円墳で5世紀中頃に作られたと推定されています
不思議と乳白色をしているコナベ古墳の濠に 水鳥が群れていました
仁徳天皇陵をはじめ5世紀の大王陵は 世界遺産に登録された 百舌鳥・古市古墳群につくられました
それと同時期にここ奈良市の北部に相次いで築造された 大王陵に次ぐ規模の前方後円墳にはいったい誰が埋葬されているのでしょう...
お次は考古学的にはヒシアゲ古墳とよばれる前方後円墳です
ちょっと分かりにくいですが さきほどの航空写真のココに隠れています
全長219mで 全国24位の古墳です
出土品や埴輪の形式から コナベ ⇒ ヒシアゲ ⇒ ウワナベ の順で建造されたようです
宮内庁はこの古墳も第16代仁徳天皇皇后の磐之媛命の「平城坂上陵(ならさかのえのみささぎ)」と治定していますが さきほどのコナベ古墳とダブっていますね^^;
前方部に二重の濠がありますが外側の濠(道の左側)はほぼ干上がっていました
夫である仁徳天皇は偉大な大王でしたが 恋も多い人でした^^;
皇后の磐之媛命は嫉妬深いなどと言われて たまったものではありませんよね💧
恋多き仁徳天皇と吉備の黒媛のお話も 以前ご紹介しました⤵
吉備の豪族の娘だった黒媛は 容姿端麗であったために都に召され 仁徳天皇の寵愛を受けましたが 皇后の嫉妬にあって故郷に帰されます
仁徳天皇が(皇后には淡路島を見てくるなどと嘘をついて)わざわざ吉備まで追いかけて会いに行ったという話が 古事記に記されています^^;
ところで 万葉集の第二巻の巻頭を飾る一首に 皇后 磐之媛命が仁徳天皇を想って作られた歌が残っています
君が行き 日長くなりぬ 山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ
(あなたが旅立ってからずいぶん長い日が経ってしまいました
あの山道をたずねて迎えに行こうかな?やっぱり待っていようかな?)
すまりんだったら まよわず探偵を雇います
ヒシアゲ古墳の向かいに 大きな池がありました
水上(みずかみ)池です
大きさは14ha 周囲は1.5kmもあり 奈良市最大のため池です
池の南辺が平城宮の北面築地大垣と一致することから平城宮と同時につくられたと考えられていて 平城宮の庭園の一部でした
池には出島や中島が10か所もあったといい奈良時代には「楯波池(たたなみ)」と呼ばれていたそうです
水鳥の浮かぶ池の縁をぐるりとまわって 向こうの小さな丘に向かいます
水上池の対岸に見えていた丘は 平城天皇陵でした
考古学的には市庭古墳という名前で 平城(へいぜい)天皇 「楊梅陵(やまもものみささぎ)」に治定されています
第51代平城天皇は桓武天皇の第一皇子で 平安京に遷都されて以降の天皇です
この古墳は当初は平城宮の北端に接する巨大な円墳と思われていましたが 実は全長250mにおよぶ前方後円墳で 平城宮建設の際に前方部が破壊削平されていることがわかりました⤵
※平城宮北辺地域発掘調査報告書(奈文研)より
本来の形が残っていれば 全国14位の巨大古墳となりますが…
平城京ができた後に即位した天皇の陵が 平城京建設の際に破壊されているなんて 時空が歪みすぎですね^^;
平城天皇は皇太子時代 自身の妃の母である藤原薬子と不倫関係にありました💦
父の桓武天皇はこれに怒り 薬子を追い出します
桓武天皇の崩御後 平城天皇が即位すると 薬子は再び後宮に招き入れられました
ところが平城天皇は病気のため わずか3年で弟の嵯峨天皇に譲位して上皇となり 旧都である平城京に移り住みました
半年後 平城上皇の病状は回復し 逆に嵯峨天皇が病気になります💧
もともと譲位に反対していた薬子と兄の仲成は平城上皇の重祚(天皇に戻ること)を画策して 平城京への遷都の詔を出し クーデターを起こしました
しかし嵯峨天皇は 機先を制し 坂上田村麻呂らを派遣して反乱を抑えたので 平城上皇は剃髪して仏門に入り 薬子は服毒自殺します(薬子の変)
平城上皇への処遇は穏便で その後も亡くなるまで 平城宮に滞在したと伝わります
追号の平城天皇は 深い愛着を持った平城京に因むものですが 本当の御陵はどこにあるのでしょうかね...
(一説では削られた前方後円墳を円墳として再度流用したとも?)
すまりんたちは平城宮跡歴史公園の北辺をさらに西へとすすみます🐾🐾
...続