すまりんの てくてく ふたり旅

部屋付き温泉のある素敵な宿と美食を求め 夫のすまきと全国飛び回ります!

神代から続くパワースポット✨八百万の神々が集う出雲大社のお話 ~後編~

前編からの続きです

 

※すまりんたちは これまで出雲大社に何度か参拝しました

都合により 過去の写真もまじえながらお話を進めていきますね(^_-)-☆

こちらは まだ静かな早朝の拝殿 

 

さて いよいよ本殿にお参りします!

ちょっとだけ屋根が見えていますが 本殿は 拝殿の裏側 八足門(やつあしもん)の奥に鎮座しておられます

背後に見えているのは八雲山という山で 禁足地になっています

いわゆる神奈備の山なのでしょうか...

 

こちらが江戸中期の作という八足門

普段はこれ以上入ることはできませんが 特別参拝の時にはこの内側に入ることができるそうです

通常 神社の参拝は二礼二拍手一礼ですが こちらは参拝の方法も独特で「二礼四拍手一礼」となります

四拍手する神社は 他は大分の宇佐八幡宮と新潟の彌彦神社ぐらいのようです

 

こちらは 宇佐八幡宮大分県

※手前に写っているのは すまりんの両親です(^_-)-☆

 

こちらは 彌彦神社新潟県

どこにでも出没するすまりんたち(笑)

 

無事 参拝を済ませました…

 

特別参拝の時以外は本殿を正面から拝むことはできませんが ぐるっと一周すると横から屋根の部分をあおぎ見ることが可能です(^_-)-☆

弥生時代以前の建物の形を今に伝える 「大社造(たいしゃづくり)」 の本殿は 伊勢神宮の「神明造(しんめいづくり)」や住吉大社の「住吉造(すみよしづくり)」とならんで最古の神社建築様式のひとつです✨

 

「大社造」は ほぼ正方形の田の字型の間取りで 中心に心柱があるため 入り口は正面右側に偏って配置されます

棟木を支える正面と背面の中央の柱は「宇豆柱(うずばしら)」と呼ばれます

また中心の柱は直径1メートルを超える特に太いもので 古来より「心御柱(しんのみはしら)」と呼ばれ神聖視されてきました✨

 

入り口の扉は右に寄り 扉の奥は板壁があって殿内が仕切られています

この壁の奥に大国主神が鎮座されている内殿(御神座)があり西を向いておられます
つまり 参拝客は大国主神の横顔に拝礼する形になります

 

本殿西側の瑞垣の外の ちょうど正面を向かれている場所にも 拝礼できる場所がありました

 

ご祭神が横を向かれている神社もあまりないように思いますが...

茨城県鹿島神宮も 正面が北向きの本殿に対して 御神座は東を向いて(横向きで) おられるそうです

ちなみに 鹿島神宮のご祭神は 武甕槌神御雷神・たけみかづちのかみ

大国主神にとっては招かれざる客といえるかもしれません...💧

高天原のアマテラスは 大国主のつくった葦原中国(あしはらのなかつくに)は 自分の子であるオシホミミが治めるべき国であると宣言して 国を譲るように迫ります

この時 大国主のもとに遣わされ 彼を威嚇したのが 鹿島神宮の御祭神 タケミカヅチでした

最終的に大国主は国を譲ることになりますが その際に条件を出しました

「…私の住むところを 天つ神の御子の宮殿と同様に 深い岩の上に太い柱を立てて 高天原まで届くほどの高い千木を伸ばして下さい」

 

出雲大社本殿の屋根の棟には 大国主の望んだとおりの立派な千木()と鰹木()が置かれています

本殿の高さは8丈(24m)あるそうです

ただし建てられた当初の古代の神殿は 今とは違ったものと考えられています

 

970年に書かれた貴族の子弟向けの教科書「口遊(くちずさみ)」には「大屋」として「雲太・和二・京三」という言葉が記されています

建物の大きさが「出雲が一番  大和の東大寺大仏殿が二番  平安京大極殿が三番」という意味とされます

当時の大仏殿は高さが45mあったといいますから 出雲大社はそれより巨大な本殿であったということになります!

それを裏付けるように 2000年の発掘調査で境内からスギ材を3本束ねた巨大な柱が出土しました

 

出雲大社に隣接する島根県立古代出雲歴史博物館にその柱が展示されています

 

こちらが出土した柱だそうです

宇豆柱(うづばしら)


心御柱(しんのみはしら)

スギの年代から 鎌倉時代の1248年に造営された本殿の柱だったと推測され 高さは45m前後とみられるということです

 

すまりんと比べると とても大きな柱なのがわかりますね(^_-)-☆

※フラッシュ撮影は禁止ですが 自由に撮影可能です(*^^*)

 

出土状況を示す ジオラマがありました


先ほどの八足門前の石畳にも 出土した柱の位置を示す模様が描かれていましたね

本殿は鎌倉時代以前の約200年間に7回倒壊したという記録が残っていて 不安定で倒れやすい構造であったことがうかがえることから 以前はさらに高かったのではないかと考えられています

遷宮の記録を示した室町時代の書には 最初は32丈(97m)であったと記されているそうです👀

 

さまざまな研究者が推測する 古代の出雲大社の模型が展示されていました

最大のものはこちらになります⤵

須磨!のぼっちゃだめ!! 

※もちろん実際は触れていません

 

まさか古代にこんな建造物が!?と思いますが...

鳥取県米子市にある稲吉角田遺跡から出土した 弥生中期の壺に こんな線画が描かれていたのです↓


創建時の柱は三本組木ではなくこんなふうに巨大な一本柱だったのかもしれません

見上げるようにそびえ立つ神殿です✨

今はもう伐られてしまってどこにも残されていないような 樹齢何千年もの巨大な大木を柱に使った壮麗な神殿…

まだ古墳を作っているような時代に そんな建物がこの場所にそびえていたのだと思うと なんだか日本の古代のイメージが覆されるような気がしませんか?

 

すまきが背伸びをして撮影した本殿

こちらが真裏にあたります⤵

本殿は伊勢神宮と同様に 幾度かの遷宮を繰り返してきました

現在の本殿は延享元年(1744年)に御造営されたもので 昭和27年に国宝✨に指定されています

 

本殿と その前に建つ東西の神饌所を「玉垣」が囲い 最内陣を成し 玉垣の外側に「瑞垣」がめぐらされ 正面に八足門と廻廊が構えられています

 

瑞垣の内側には以下の摂社があります

「大神大后神社」

「神魂伊能知比売神社」

「神魂御子神社」

そして 東西の「門神社」

 

瑞垣の外側にも摂社や末社があり これらの社殿群 計21棟1基は一括して重要文化財に指定されています✨

 

こちらは本殿の裏側... 出雲大社最奥部にある「素鵞社(そがのやしろ)です

大国主の舅である 素戔嗚尊スサノオノミコトが祀られています

真後ろから怖いお義父さんに監視されて 大国主もちょっと嫌かもしれません💦

 

こちらの縁の下の木箱に 砂が盛られています

砂の木箱は お社の左右と裏側にもあります

 

稲佐の浜で取ってきた砂をお納めします 前編もご覧くださいね(^_-)-☆

 

そしてスコップで 木箱の砂をいただきます

お納めしたより少ないめにいただくのがマナーなのだそうです

 

これを持ち帰って 家の庭に撒かせていただきたいと思います(*^^*)



ところで 出雲大社の摂社のうち とりわけユニークなのがこの「十九社」

こちらの長いお社は 神在月に全国から集まられる神々が宿泊されるお宿になります

 

実は この雨の時は 神在月の訪問でした⤵

「神迎祭」の祭日まであと数日という時だったので 皆さまチェックイン寸前の状況だと思います(^_-)-☆

(気の早い神様はもう滞在しておられたのかもしれません)

 

十九社の隣には「釜社(かまのやしろ)があります

御祭神は 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

伊勢神宮の外宮や 伏見稲荷大社の御祭神ともされる宇迦之御魂神は 食物をつかさどる神様ということですから こちらが宿泊者様のメインダイニング✨ということになるのでしょうか??

 

拝殿前の鳥居を出て...

すぐ左(東側)へ行くと「真名井の社家通り」という風情のある小径があります

 

こちらは 北島国造館というお屋敷です

出雲大社宮司職である出雲国造家は 南北朝時代に入るまで一子相伝でしたが 内紛があって「千家家」と「北島家」に分裂し 以後双方が出雲国造を名乗り 祭事を二分しておこなってきました

明治に入り 雑多であった日本の神道国家神道として統合され 伊勢の皇大神宮(内宮)を別格として全国神社の頂点に置いてピラミッド型の体系が形作られます

しかし 出雲大社伊勢神宮の下に格付けられることをよしとせず 神道界は伊勢派と出雲派で争う事態となりました

最終的に出雲派は敗れ 出雲大社の本体は国家神道に組み込まれます

そこで宮司であった千家尊福宮司職を弟に譲り「出雲大社教(いずもおおやしろきょう)」という新興宗教を興して独立し 北島家も別に「出雲教」を興し 伊勢を頂点とする国家神道から別れたのです

 

ちなみに 出雲大社の西側にある 出雲大社教」の神楽殿には 長さ約13m 重さ5.2トンの日本最大の注連縄(しめなわ)がかけられています

先の大戦国家神道は解体され 出雲大社出雲大社教は再び統合されましたが 宗教法人としては今でも別団体となっているのだそうです

 

出雲大社の東側にある北島国造館は 北島家の主宰する「出雲教」の本部になります

出雲教では 家屋敷を(形の上で)出雲の神様に献上することで「出雲屋敷」という神様の住まいとし 祟り障りがなくなるという御祈祷があるそうで 年に一度その感謝のお供えを「年貢」として奉納するのだそうです

 

さらに小径をすすむと 真名井の清水という湧水がありました

古来から 神事につかう神聖な水を汲む場所として用いられてきたようです

 

真名井の清水のすぐ近く 道を折れて山すそに行くと🐾🐾

「命主社(いのちぬしのやしろ)」がありました⤵

正式名称を「神魂伊能知奴志神社(かみむすびいのちぬしのかみのやしろ)」といい 兄弟たちの奸計で命を落とした大国主を何度も蘇らせた始原の神である「神皇産霊神(かみむすびのかみ)」が祀られています

 

冬なので葉を落としていますが 樹齢千年といわれるムクの巨木の陰にお社がありました

背後には磐座が残されています⤵

この遺跡のさらに裏手にある竹林の奥に 巨大な岩が横たわっています↓

寛文5年(1665)の出雲大社御造営のとき この岩の下から弥生時代の銅戈と勾玉が発見されました

これらは 先ほど紹介した「古代出雲歴史博物館」に展示されています

銅戈は九州北部から 翡翠の勾玉は新潟県糸魚川から それぞれもたらされたものと考えられていて 広範な日本海交易を物語っています

 

「命主社」は 歴史を越えたはるかな過去から続く信仰の姿を今に伝えているのですね

 

帰り道... 北島国造館の門の下で 猫さんがひなたぼっこをしていました

すまりんたちの気配を感じたのか お耳がこっちを向いています

なんか用にゃ ??

ちょっと怖いお顔に見えますが しっぽで挨拶してくれました(*^^*)

 

ごろりん...💛

 

今回のお話は 以上です(^_-)-☆

楽しんでいただけましたでしょうか...

※古代出雲歴史博物館は 耐震改修工事のため今年4月から休館となっています

来年(2026年)9月ごろまで入館できませんので ご注意下さい(^_-)-☆

 

次回は 

湯の川温泉「草菴」 に再訪したお話です(^_-)-☆