すまりんの てくてく ふたり旅

部屋付き温泉のある素敵な宿と美食を求め 夫のすまきと全国飛び回ります!

元寇防塁を歩く (前編)

すまきとすまりんのてくてくシリーズ🐾🐾

今回は元寇防塁」の跡を端から端まで歩きます!

 

鎌倉時代  二度にわたって日本を攻めた蒙古軍...

元寇と言えば

1274年の「文永の役」 と 1281年の「弘安の役

小学生の時「いになよ!」「いにやい!」と覚えさせられました

※帰れ!という意味ですが すまりんは そんな言葉は使いません^^;

 

初回の「文永の役 」で 敵軍の上陸を許してしまった鎌倉幕府は 次の侵攻に備えて博多湾岸に長大な防塁を築きました✨

おかげで 「弘安の役 」では蒙古軍の九州本土上陸を一切許さなかったと言われます!

 

防塁のほとんどは時代と共に砂に埋もれ失われていますが 当時は福岡市西区の「今津浜」から 東区の「香椎」まで 石積みの防塁が約20kmに及んでいたそうです

歴史群像シリーズ 北条時宗:学研より

 

すまりんたちは点々と残る元寇防塁の遺構をたどりながら 下図のルートを2日に分けて歩きました

スタート地点をどちらにするか ということについて...

香椎宮」:近くに駅があり博多へのアクセス良好✨

「今津浜」:バスが1時間に1本...交通の便はイマイチ💦

帰りのことを考えて「今津浜」→「香椎宮」へ歩く計画を立てました

 

前日に福岡入りしてホテルに泊まり 翌朝から歩き始める計画だったのですが...

なんと翌日は大雨の予報😱

急きょ 翌日の歩きを中止し "到着日の午後&翌々日"で 歩く計画に変更しました

 

計画したルートはひっくり返り💦

博多に近い 西鉄香椎宮」から 荷物を背負ってのスタートとなりました^^;

 

まずは 駅から1kmの香椎宮に参拝し旅の安全を祈願...

ご祭神は 仲哀天皇神功皇后ご夫妻で "夫婦の宮"とされています

 

仲哀天皇の御陵は大阪の「古市古墳群」にあります

一方 神功皇后陵は奈良の「佐紀盾列古墳群」にあります

www.aranciarossa.work

 

724年に建立後 1801年に再建された本殿は "香椎造"という日本唯一の建築様式で 重要文化財に指定されています✨

 

12:21 「香椎宮前駅」に戻ってきました

にゃんと!万歩計が電池切れ💧

 

 

急きょ スマホのアプリをダウンロードしました

※今回のテーマ「元寇防塁を歩く」は ここからのスタートなので  この歩数と距離は集計時に差し引きました

 

まずは地蔵松原地区にある元寇防塁跡まで 3.8kmを歩きます

 

線路沿いを行きます🐾🐾

この辺りは昭和に埋め立てされた場所で かつて線路は海岸を走っていました

香椎付近の元寇防塁は確認されていませんが 実際に築かれていたとすればこの付近にあったものと思われます

左は大正15年測図の地図 右は現在(今昔マップ on the web 埼玉大学教育学部 谷 謙二先生)

 

すまき撮影の航空写真⤵ 

ほぼ西鉄の線路に沿う位置に防塁があったと推定されます

埋め立てで新しくできた町並みは広い歩道が完備されて歩きやすかったです!

 

千早駅」を過ぎ…

 

名島駅」を越え...


多々良川を渡ります🐾🐾

ちょっと見づらいですが 西鉄線(水色)に比べ その下にちらっと見えているJR線の橋はかなり低いですね...

増水時には浸かってしまいそうです💦

 

橋を渡ってすぐ 西鉄の線路を横断し…

 

西鉄の横を並走するJR線に沿って進みます

全行程の中で この区間だけが歩道が無く歩きにくかったです💦

 

地下鉄 箱崎線の終点でもある 西鉄貝塚駅

 

JRの線路を越えて 住宅街の中を進むと…

 

目指す公園が見えてきました!

元寇防塁の碑がある地蔵松原公園です

遊具の横にぽつんと石碑が立っていました⤵

石碑の下の石畳は 防塁の方向を示すものでしょうか...

防塁の築盛は部分ごとに担当が分けられ この辺りは薩摩国の担当だったようです

担当が違うと 防塁の作り方も違ったみたいです

 

当時の名残は 無造作に置かれた石だけでした^^;

 

次は「筥崎宮(はこざきぐう)」を経て「元寇史料館」まで 2.7kmの道のりです

 

九大の箱崎キャンパスが西区へ移転し 跡地の再開発が行われていました

キャンパス内にも元寇防塁の遺構があったようですが工事中で見学することはできませんでした

新しい街並みができた暁には ぜひ遺構を整備して見学できるようにして欲しいです(*^^*)

 

筥崎宮に近づき 街が賑やかになってきました


筥崎宮は多くの人で賑わっていました✨

筥崎宮主祭神八幡神となられた応神天皇です

応神天皇は先に紹介した仲哀天皇神功皇后の皇子で 皇后は身ごもったまま朝鮮半島へ出征し 月延石で出産を遅らせ 筑紫に戻った後 皇子を出産したと言われています

 

1594年に小早川隆景により建立されたという楼門前には 参拝の行列が...

ひときわ目を引くのが 楼門に掲げられた「敵國降伏」の扁額です

楼門を造営した際 亀山上皇の御宸筆を謹写拡大したものだそうです

 

元寇当時に院政をしいていた亀山上皇は「身を以って国難に代える祈願」を伊勢神宮に奉ったというかたです

祈願したのは皇位にあった 実子の後宇多天皇という説もあります

亀山上皇の「敵國降伏」ご宸筆の ”敵国” とは明らかに ”元” のことですが 筥崎宮への「敵國降伏」ご宸筆の奉納は 実はもっと昔の菅原道真の時代 ... 醍醐天皇が最初だそうで この時の敵国が具体的に誰なのかはよくわかっていません

 

明治時代に 東公園に亀山上皇銅像が建てられましたが その原型の木像が境内に安置されていました

 

境内にあった蒙古軍の碇石(いかりいし)

この細長い石は 下の模型のように"重り"として碇にはめ込んで使われます

※これは鷹島松浦市埋蔵文化財センターの展示物です

 

ちなみに博多の真ん中にある櫛田神社の大銀杏の横にも碇石が置かれていました

 

文永の役では 総大将 少弐景資のもと「筥崎宮」に日本の本陣が置かれ 宮は焼け落ちたと伝わります

鷹島にある少弐景資の像⤵


元寇に関する第一級史料として長年にわたり引用されてきた書物に「八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)」というものがあります

八幡神の霊験・神徳を説いた寺社縁起ですが これによれば...

御家人たちは戦いのしきたり通り 敵に向かって名乗りを上げながら一騎打ちをしようとし 蒙古兵に打ち負かされて水城まで敗走したのだそうです

←すまりんたちもそんなふうに習った記憶があります

武運も尽き果て 日本側はもう終わりかと思われた時 筥崎八幡宮から現れた30人ばかりの白衣の者が蒙古軍に向けて矢を放ちました🏹

大混乱に陥った蒙古軍は 我先に逃げ出したといいます💨

 

ところがこの「八幡愚童訓」...

八幡神の霊験を強調したいあまりに武士たちのヘタレっぷり(笑)を誇張しすぎて あることないこと書いているようなのです^^;

そもそも著者は博多に来たこともなかったようで...💦

現在では 御家人たちの戦いぶりが再評価されてきています✨

 

蒙古軍も筥崎宮までは攻め込めなかったと考えられていて もしかすると戦いに際して日本側が自焼させた可能性もあるようです^^;

宮は焼けた翌年には再建され その際 亀山上皇の「敵國降伏」のご宸筆を賜りました

 

すまりんたちは時間に追われていたので 筥崎宮の参拝もそこそこに^^; 次の目的地へ向かって進みました

 

※ブロ友のぴーちゃんさん (id:gracedusoleil2525) が 筥崎宮の詳細について書かれていますので ぜひこちらをご参照ください(^_-)-☆

gracedusoleil252525.hatenablog.com

 

地下鉄「馬出九大病院前駅」から左へ折れ…

福岡県庁の裏へと進みます🐾🐾


元寇史料館」が見えてきました!

敷地内に建つ日蓮上人の銅像

日蓮上人は「立正安国論」を著して元寇を予言したそうですが それで銅像が建てられているのでしょうか...

 

元寇史料館は 閉まっていました

こちらは民間施設で見学には予約が必要だそうです

もしかしたらと思って来てみましたが やはりダメでした^^;

 

ここから博多の中心街を抜け 福岡城の方へ向かいます

 

東公園の横をてくてく🐾🐾

ここに鎮座する亀山上皇銅像筥崎宮の木像を原型としているのだそう...

 

かなり疲れてきました💧

 

御笠川を渡り...

 

呉服町にある 博多小学校に到着

ガラス戸に歴史上の人物名が並んでいましたが 元寇についても書かれていました

この辺りは当時「息(おき)の浜」と呼ばれ 博多の町の外浜でした

文永の役では重要な拠点となり 総大将 少弐景資はここに軍を集結させたようです

小学校の地下に元寇防塁が保存されていて 日曜のみ見学が可能とのこと

どこにあるのか 迷いましたが...

実は 小学校の校舎の隣の「奈良屋公民館」に入り口がありました

石塁遺構展示室へは ここから階段を下ります

地下では受付の守衛さんが座ったまま寝ておられました

あまり人が来ないのでしょうね…

 

内部は想像していたより立派な展示がされていました✨

入場無料なのはありがたいです(*^^*)

 

平成10年 博多小学校建設時の発掘調査で発見された石塁

石の積み方や規模などが元寇防塁と類似しており 鎌倉時代には海岸部の砂丘だった場所に位置するため"防塁"と推測されていますが 断定するに至っていないため「石塁遺構」と称しているそうです

ようやく防塁らしい防塁に出会えて 感激✨

 

蒙古襲来絵詞

肥後の御家人だった竹崎季長(たけざき すえなが)元寇における自分の戦いを描かせたとされる絵巻物ですが 作者は不詳...

季長は 文永・弘安の役の両方に出陣しました

上図は 防塁で守備を固める絵で 弘安の役の様子です

 

御家にゃん すまにゃが も 参陣!

ちいさな須磨にぴったりのグッズは すまきの手作りです

 弓: 庭の黒竹をまげて糸とシールで装飾

 矢:ピンチョスの棒と100均の羽

    えびら:紙箱とワイヤーで作成し スプレー仕上げ✨

 

※兜は 以前ののぶにゃがのを再利用(^_-)-☆

注)須磨は本当は女の子です...

 

だいぶ暑くなってきました

 

コンビニで購入したガリガリ君を見つめるすまにゃが

ふたつは同時に食べれぬにゃ...

 

中洲を越え 那珂川を渡ります🐾🐾

博多付近の地形は 当時と今とでは大きく異なっていました

 

地理院地図の色別標高図・絵図・発掘調査記録を元に海岸線を推定してみました

 カメレオンが逆さまを向いて踊ってるようにも見え

博多湾沿岸では砂州が発達しやすく 砂州が河口を閉じて湖となり いくつもの潟湖をつくっていました

大濠公園草香江という潟湖の名残で そもそも博多湾自体が志賀島海の中道に囲まれた潟湖ともいえます

博多の町は 長浜と息の浜という砂州で閉じられた"冷泉津"という潟湖に面していて 今の中洲や天神はもとは湖の底でした

 

・・・・・・

長くなりますが^^;

ここで少し「文永の役」の経過をまとめてみようと思います

 

1274年 モンゴル人のクドゥン忽敦)を総司令官とし 漢人劉復亨と 高麗人の洪茶丘を副将とする 元(および高麗連合)軍 総計3万以上の軍勢が900艘もの軍船に乗って朝鮮半島の合浦(がっぽ)を出航しました⚓

 

10月5日

対馬の小茂田浜に襲来した元軍を 対馬守護代 宗助国はたった80余騎で迎え撃ったそうです

宗助国ら対馬勢は小太郎・兵衛次郎の二人を急使として博多へ逃すと 全員敵中に突撃して討死したと伝わります(>_<)

 

10月14日

元軍は壱岐に襲来⚓

守護代平景隆が100余騎で応戦しますが 圧倒的兵力差になす術もありません💧 逃げ場の少ない壱岐では生き延びた人が65名しかいなかったともいわれています(>_<)

 

10月16~17日

伊万里湾鷹島を蹂躙⚓

全島で殺戮を繰り広げました(>_<)

山林に8人家族が隠れていましたが 鶏が鳴いたため見つかってしまい 7人が殺され 灰溜めにひそんでいた老婆だけが生き残ったという伝説の「開田の七人塚」が鷹島に残されています

以来 この集落では鶏を飼わないそうです


そして 10月20日

元の大軍はついに博多湾に到来しました⚓

 

志賀島から望む博多湾全景⤵

🔍

光るPayPayドームから 先の尖った福岡タワーにかけての"百道浜"に元軍の主力が上陸しました

一方 日本軍は 対馬の小太郎・兵衛次郎の急報をうけた総大将 少弐景資のもとに九州の御家人たちが駆けつけ 筥崎から息の浜付近に約5000騎が集結したと言われています

 

元軍は今津浜から筥崎浜にかけて上陸を試みたとされますが 博多の海は遠浅の砂浜で 大きな軍船は汀線から100m以上沖に停泊しなければならず そこから小型のボート抜都魯 バートルをピストンし 兵卒を少数ずつ移動させることになりました

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  学研 歴史群像シリーズ 北条時宗より

 

近代戦であれば 艦砲射撃や空挺部隊で上陸阻止勢力を駆逐した後 上陸作戦を行うところですが この時代はそうはいきませんね...

記録には無いようですが 日本側もこのタイミングで何らかの攻撃を加えたに違いありません!

結局上陸に成功したのは 百道浜からの主力軍だけだったようです

百道浜に上陸した元軍は東に向かい 博多の町をめざして侵攻を試みました

 

蒙古襲来絵詞」には 少弐景資率いる日本軍主力は「馬にとって足場が悪い赤坂を避け 博多に陣を敷いて迎撃」しようとしたと書かれています

しかし 平安時代まで鴻臚館(迎賓館兼外務省兼貿易センター)や警固所(守備隊施設)が置かれ のちに福岡城まで築かれた"赤坂"ですから 足場が悪かったとは思えません...

足場が悪いのは多分 百道浜から草香江を廻ってくる鳥飼潟の辺りのことで 本陣を博多に置いたとしても 高台である赤坂にも陣を構えて迎撃したと考えるのが自然ですよね

 

赤坂にある福岡城天守台から 大濠公園草香江)を望んだ景色⤵

 

事実「蒙古襲来絵詞」でも 先駆けを許され博多から西へと向かう季長が ”赤坂”での戦闘後に敵の首級をあげて本陣へと戻る肥後の御家人 菊池武房以下100余騎と住吉神社付近で遭遇しています

 

季長は わずか主従5騎で 菊池勢らの攻勢によって退く元軍を追い 最前線へと到着しました✨

 

鳥飼潟を横断して逃げようとする元軍の小勢に矢を射かける季長の家来

しかし 馬が干潟に足をとられて転倒し取り逃がしてしまいました💦

 

元軍は小高い麁原山(そはらやま)に集結し 追撃する日本軍を迎え撃とうとしていました

標高33mのこの丘は 祖原公園となっています 

ビルが建ち並んでいますが 当時は一面が見渡せたと思われます

左端の福岡タワーの方向に百道浜...

右側には草香江・鳥飼潟の干潟が広がっていました


季長は郎党の制止も聞かず麁原山にひしめく元軍に突進しました💨

所領争いの裁判に負けて領地を失っていたので 何としても功を立て領地を得る必要があったのです

案の定 敵の矢を受けて負傷し危機に陥りますが 味方の軍が追いついて助かりました

「てつはう」が炸裂する有名なシーンは この瞬間を描いたものです

 

前進してきた日本軍主力の総攻撃をうけ 元軍は麁原山から百道浜へと敗退...

限られたボートで沖の軍船へ逃れようとする元の将兵たちは 大混乱に陥ったに違いありません

総大将の少弐景資が射た矢が 元軍の副将 劉復亨を射抜いて負傷させたという記録が 日本側と元側の双方の史料に残されています

一部はおそらく船に乗り切れず 姪浜方面にも逃れましたが 「姪ノ浜 百路原両処二於テ 異賊ヲ斬ル事夥(おびただ)シ」と日本側史料に記されています

 

元と高麗の軍船は 折しも波高い中 日没後に慌てて船を出したため次々と座礁し 大惨敗を喫しました

10月末なので 冬の季節風玄界灘が荒れたのでしょうか

台風の神風という話もありますが 「文永の役」では台風は無かったものと思われます

 

元寇当時 日本各地の社寺では敵国調伏の祈禱が行われました

祈祷の効果を強調して恩賞を得るべく「八幡愚童訓」のような神の力で敵を退けたのだという社寺の宣伝が広く流布してしまい 神国思想・神風神話とも相まって 近年まで九州の御家人たちの実力が過小評価されてきました💦

しかし 実際には鎌倉武士の実力は侮れないものであり 渡海しての敵前上陸作戦というものがいかに困難であるか ということにつきるのでしょうね

 

・・・・・・

 

天神の人混みは 疲れた体にこたえました^^;

 

チェックイン可能時刻の15時ちょうどに ホテルに到着!

超 誤差の範囲ですが ホテルの中の移動の歩数は集計時にはずしました

 

実は 明後日の天気もあまり良さそうではありません^^;

荷物を置き 今日のうちにあと少しばかり距離を稼いでおきます💨

 

かなり長くなりましたが もう少しだけお付き合いいただければ💦

 

福岡城を通過...

関ヶ原の功により筑前52万石を拝領した黒田長政が築城した城です

黒田家ゆかりの岡山県にある福岡という地名にちなみ福岡城の名がつけられました

築城に際して この近辺の元寇防塁の石垣が崩されて使用されたということです

 

(伝)潮見櫓 が見えています

※本当の潮見櫓は別の建物であることが判明したため 「伝」が付いているそうです

 

外濠の縁を巡り...


もうひとふんばりして「西新」まで歩きます


大濠公園を過ぎ 黒門川通りを北へ...

 

こちらは大圓寺

平成7年に建てられた五重塔は福岡初の木造五重塔

塀際の石積みは元寇防塁の"残石"なのだそうです⤵

 

住宅街の中をさらに進むと…

フェンスに囲まれた空き地がありました⤵

ここが 地行地区の防塁跡なのだそうですが 面影はありません

 

ラストスパート!

 

16:43 地下鉄「西新駅」到着

さて... 何歩かにゃ~?

 

ここから余分な歩数をはずすと...

元寇防塁に関わる歩数」は23812歩  同様に 距離は16665mでした

 

冒頭に書いた理由で「今津浜」をゴールにしたくなかったため 翌々日は「今津浜」から ここ「西新」まで歩くことにしました

「西新」を左右から攻める形で一本に繋げたいと思います(^_-)-☆

 

 ...