すまりんの てくてく ふたり旅

部屋付き温泉のある素敵な宿と美食を求め 夫のすまきと全国飛び回ります!

萩八景遊覧船と萩城のお話... シメは美味しいプリンで(^_-)-☆

城下町 は 水の都ともよばれるそうです

阿武川の三角州の上に立地し 堀や運河で区切られた町は水の恵みを受けてきました

維新の元勲の屋敷が残る情緒豊かな町並みも素敵ですが 川から町を眺めるのもまた違った趣があります(*^^*)

 

前半は 萩八景遊覧船のお話

後半は 旧厚狭毛利家萩屋敷と萩城登山のお話

シメにちょこっと...

 萩城下の美味しいプリンのお店のご紹介です

 

ーーーーーーーーーー

萩八景遊覧船

萩城のすぐ近くに「萩八景遊覧船乗り場」があります

広い無料駐車場も完備されています(^_-)-☆

乗船料金: 大人(中学生以上)1200円

      小学生以下  600円 

      3歳未満  無料

※12~2月を除き毎日運航されていますが 悪天候の場合は運休です

平日にも関わらず武家屋敷街には観光客がけっこうおられましたが ここはちょっと穴場のようです

すまりんたち以外には一人旅の女性だけの ほぼ貸切状態でした✨

救命着を着て乗船します

船着き場の川は 指月川(萩疏水)とよばれます

萩城のお堀のように見えますが 河口に砂州が発達して氾濫をおこしやすい橋本川の水を迂回させる治水対策として大正時代に掘削されたものだそうです

 

さて 出発です!

まずは17秒の動画からどうぞ(^_-)-☆

※音量にご注意下さい

 

ここから橋本川に出ます

↑ 左に見える常盤大橋の下をくぐって上流へと向かいます

 

このあたりは上級武士の館跡が並んでいます

藩主の別邸もあったそうです

 

さらに上流に遡ります

 

三の丸を区切るお濠の入り口が見えてきました

🔎奥に「平安橋」が見えています

城下町と三の丸を結ぶ三か所の総門のうちのひとつになります

 

岸辺に続く 白壁と松林...

左手には田中義一別邸がありました

田中義一といえば 第26代の内閣総理大臣です✨


ここでUターンします⛵

 

船頭さんが すまりんたちの写真を撮って下さいました

 

このあたりの景色が 萩八景のひとつ「玉江秋月」の風景のようです

「八景」というのは中国の瀟湘八景(しょうしょう はっけい)に由来します

瀟湘は湖南省一帯の地域で 洞庭湖とそこに流れ入る瀟水と湘江の合流するあたりです かつて楚の国の中心地として栄えた神話や伝説に彩られた土地で 古より風光明媚な水郷地帯として知られています

北宋時代に宋迪という人が瀟湘の八つの景勝を

山市晴嵐・漁村夕照・遠浦帰帆・瀟湘夜雨・煙寺晩鐘・洞庭秋月・平沙落雁・江天暮雪

として山水図に描いたところ この画題が流行し やがて日本にも伝わりました

日本では「近江八景」や「金沢八景」が有名ですね✨

 

毛利藩3代目藩主 毛利吉就が お抱えの絵師・歌人・学者に命じて萩城下の佳景を選ばせ 以下の八景を定めました

上津江晴嵐鶴江夕照 ・ 倉江帰帆 ・ 中津江夜雨 ・ 小松江晩鐘 ・ 玉江秋月 ・ 下津江落雁桜江暮雪

 

 

橋のたもとのお堂は 玉江観音として知られる潮音山観音院の観音堂です

たしかに 風光明媚な景色ですね(*^^*)


赤いバスは 萩循環まぁーるバス

西回りコース(晋作くん)と 東回りコース(松陰先生)があります

 

右手に面白い形の山が見えてきました⤵

萩のシンボル「指月山」です

指月山の山頂が 後半でお話しする萩城の詰の丸になります

 

再び玉江大橋をくぐって...

遊覧船乗り場まで戻ってきました⤵

そのまま通り過ぎて...

こんどは日本海のほうに向かいます

 

正面に低い橋が見えてきました

 

通り抜けるために 屋根を下げます⤵

 

こちらは20秒の動画です

 

無事通過(*^^*)

 

 

正面に見える ソンブレロハットのような山は 笠山です

 

左手には先ほど登場した指月山が迫っています

指月山をぐるりと囲むように お城の石垣が続いています!

防長二州に押し込められたとはいえ さすがは大身の毛利家の居城です

スケールが違いますね✨

 

船頭さんがサービスで 操縦体験をさせてくれました!

すまりんは おっかなびっくり(笑)

すまきもすすめられたけど 自分は経験者だからと操縦体験を辞退...

釣りが趣味のすまりんの父は船を持っているのですが その流れで(笑)実はすまきも船舶免許を持っているのです(^_-)-☆

本当は 失敗したらカッコ悪いと思ったからかも(笑)

 

ーーーーーーーーーー


旧厚狭毛利家萩屋敷

 

遊覧船乗り場のすぐ先に 旧厚狭毛利家萩屋敷の長屋が残っています

毛利家には一門八家とよばれる家老の家柄がありましたが 毛利元就の五男 元秋を始祖とする厚狭毛利家もそのひとつでした

厚狭毛利家萩上屋敷は 萩城の真正面の一等地にあって4700坪の広大なものでした✨

 

同じ家臣でも萩城から4kmも離れた29坪かやぶき屋根の伊藤博文旧宅とは雲泥の差です

※過去に訪れた時の写真です

 

萩屋敷の母屋や庭園などは明治維新前後に解体され この長屋のみが残っています

 

萩城のジオラマが展示してありました

誤解を恐れずに言えば...

萩は 函館に似て陸繋島(トンボロ)の砂州の上にできた町です

砂州を横断するように濠で区切って三の丸・二の丸と囲み ちょうど函館山にあたる「指月山」の麓を本丸とし さらに最終決戦地として指月山山頂に詰丸を設けた極めて防御能力の高い城といえそうです✨

 

萩城には白亜五層の天守がありましたが 明治7年に解体されてしまいました💧

 

こちらが大手口にあたる 二の丸南門です

正面玄関だけあって 石垣も立派ですね!

 

藩祖 毛利輝元銅像がありました

 

南門の桝形は 中央についたてのような石垣のある複雑な造りになっています

ここでも防御は手厚いですね...

 

二の丸に 萩焼の窯元がありました

萩焼は 若かりし頃のすまりんたちが初めて買った"焼き物"なので ちょっと思い入れがあるのです(^_-)-☆

 

おや! お店の奥からネコさんが出てきました!

いらっしゃいにゃ!

有名なネコさんだったのですね💛

 

素通りするところでしたが せっかくなので ちょっとおじゃますることに...

店内には食器や花瓶などが並んでいましたが ネコさんがひっくり返したりしないのか心配になりました^^;

すまりんたちは 今回こちらの一輪挿しを購入しました⤵

一個は自分用で 一個は母へのお土産です(^_-)-☆

f:id:aranciarossa:20240331140036j:image

 

ネコさんは店内をパトロールしていますが 商品には見向きもしません 

えらいですね(*^^*)

 

レジのカウンターから ジャンプ!!

とっても可愛いネコさんでした💛

 

 

さて  萩城に登ります🐾🐾

 

内濠にかかる極楽橋を渡ると いよいよ本丸になります

先ほどから天気が回復してきました(*^^*)

 

維新後に石橋になりましたが 江戸期には木橋で 有事にはすぐ落とせるようになっていたそうです

 

濠にせり出すように 扇の勾配の石垣が美しい天守台がそびえています✨

天守を壊さずに残しておけば 萩単独で世界遺産指定が狙えたかもしれません

※「明治日本の産業革命遺産」として長崎・北九州などと抱き合わせで萩市内の5つの史跡が構成遺産となりました

 

本丸門の桝形を抜けて🐾🐾

 

この階段は雁木坂とよばれるもので 城塁の上に駆け上がるためのものです

 

天守台までやってきました

 

この広場は天守背後の付櫓が建てられていたところです

天守台へはさらに階段を登ります

 

立派な礎石ですね✨

さっき渡った極楽橋が見えています⤵

 

さて これから指月山山頂を目指します(^_-)-☆

 

13:33 スタート

山頂までは730m

 

大した登山ではありませんが 草が茂っていて暑そうです^^;

前半は足場はそんなに悪くありませんでした




駐車場に戻るのが面倒くさくて 萩焼の花瓶を持って登るすまき

ちょっと急いでいたので ネコさんが出て来なかったら買ってなかったかも?

ネコさん 良い仕事をしていますね(笑)

ちょうど半分くらいまで来ました

山頂まで12分(350m) だそう...

こういう看板があるとありがたいですね(*^^*)

 

だんだんゴールが近づいてきました

 

猛烈な蚊の大群に襲われながら^^; 進みます🐾🐾

 

山頂の石垣が見えてきました(*^^*)

 

ここが萩城要害ともよばれる指月山山頂の詰丸跡です

 

13:50 到着🚩(登りの所要時間は17分でした)

入り口の要害門跡

小さいながら ここもちゃんと桝形になっています

 

やはり山城は冬に来るべきです^^; 草だらけです💧

本丸と二の丸があり 7基の櫓を備え ここ単独でも本格的な城郭としての機能がありました

江戸期を通じて常時6~7名の番兵が泊まり込んでいたそうです

 

ピンボケ^^;

水の手として 雨水を貯める貯水池がありました⤵

昭和40年に土塀の一部と共に復元整備されたものだそうです

樋があって 面白い遺構です

 

こんな山頂にどうやって石垣を運んだのかと思っていましたが…

あちこちに石を切り出すノミの跡が残されていました

山頂の石を割って石垣を組んでいたのでしょうか...

 

これは 何でしょうね...


向こうに視界の開けた所がありました

 

ビュースポットの案内(※西の方角を望んだ景色です)

 

砂州で閉じられた 橋本川の河口が見えています

向こうに見えるのは青海島でしょうか...

金子みすゞで有名な 長門市仙崎の方角です

詰丸もいよいよアウトとなったら 裏の断崖を降りて舟で落ちのびることもできそうです

 

ミニボンビー(笑)のような"ヤブ蚊"にたかられ退散して山を下りました💨💨

 

ーーーーーーーーーー

木戸孝允の旧宅の近くに  萩ぷりん亭 があります

隣に無料駐車場がありました⤵

 

すまりんたちはちょっと離れた有料駐車場に車をとめてしまいました^^;

 

萩には猫が多いですね(=^・^=)

www.aranciarossa.work

 

いろんなプリンが並んでいます

 

イートインの場合 カウンターとテーブル席があります

 

屋外でもいただくこともできますよ(^_-)-☆

 

メニュー

 

二人とも萩ぷりんパフェ(630円)にしました

ソフトクリームもプリンも濃厚...

でも 甘すぎず とっても美味しかったです(*^^*)

 

この後 「萩八景」のひとつ 鶴江夕照の見られるお宿に向かいました🚗

 

次回は      
 「萩八景 雁嶋別荘」のお話です(^_-)-☆

 

鞆の浦 ぐるり観光

すまきとすまりんがこのたび訪れた鞆の浦(とものうら)広島県福山市の港町です

鞆の浦は 瀬戸内海のほぼ真ん中にあり この辺りで東西の潮の流れが変わることから 瀬戸内海を横断する船はここで一旦 潮の流れが変わるのを待ちました

ということで 鞆の浦「潮待ち港」として知られ 江戸時代を偲ばせる建物がたくさんあります

そういえば「崖の上のポニョ」の舞台になったとも言われていますね(^_-)-☆
宮﨑駿監督鞆の浦の古民家に滞在中「崖の上のポニョ」の案を練られたとのこと…

 

 

今回は小さな宝石箱のような鞆の浦の町を巡ってみたいと思います

 

観光の順番が前後しますが この順にご紹介します

❶東洋一の景色の寺 福禅寺の対潮楼

❷「平成いろは丸」で仙酔島へ

❸活魚料理 鯛めし 千とせ

❹龍馬の隠れ家  桝屋清右衛門宅

❺鞆の浦港と「汐ノ音」の映えスイーツ

❻いろは丸記念館

❼鞆城 と ささやき橋

❽医王寺 太子殿からの絶景

 

 

❶東洋一の景色の寺 福禅寺の対潮楼

港町特有の細い路地を抜けて 坂をのぼり詰めると石垣のお寺が現れました

海岸山福禅寺

江戸時代 朝鮮国王が日本に派遣した外交使節団「朝鮮通信使」は 対馬壱岐から瀬戸内海を通り 大坂・京都を経て江戸に向かいましたが その途中で寄港した鞆の浦では この福禅寺に滞在したそうです

本堂の奥の「対潮楼」からの眺めがとても美しいということです...

拝観料: 大人200円  中高生150円  小学生100円

 

こちらが「対潮楼」⤵

江戸時代の元禄年間に福禅寺の客殿として建てられ 朝鮮通信使のための迎賓館として使われました

 

後半でご紹介する常夜燈と共に サザエさんのオープニングにも使用されていたようです

 

緋毛氈の敷かれた座敷からは 瀬戸内海に浮かぶ仙酔島弁天島が一望できます

   ⇩ ⇩ ⇩

絵画のような美しい景色に 朝鮮通信使の高官たちは「対馬から江戸までで一番美しい」として「日東第一形勝」と評し 隷書にしたためたそうです

 

確かに 絵画のような風景に見とれてしまいます

 

貴重な書が朽ちるのを恐れた福山藩が 書を木額に写したものが今も残されています↓

 

朝鮮通信使の絵図など 歴史資料も展示されていました

幕末に 坂本龍馬海援隊の操船する「いろは丸」と紀州藩の「明光丸」が衝突し いろは丸が沈没する事件が起こりました

鞆の浦坂本龍馬らと紀州藩の補償に関する談判が行われましたが ここ対潮楼もその会場のひとつとなったそうです

 

「面白写真」…!?

レンズが3つのスマホしかもっていなくて どこに合わせたら良いのか分からず^^; なかなかピントを合わせられませんでした💧

 

何回もトライして ようやく撮れた1枚

向かいの弁天島にある弁天堂が見えました(^_-)-☆

 

龍馬も見たであろう美しい仙酔島


今は「平成いろは丸」が渡船として活躍し 渡ることができます

目次へ↑

 

 

❷「平成いろは丸」で仙酔島へ 

「平成いろは丸」は 龍馬が乗った蒸気船「いろは丸」を模した船です

船場は福禅寺のすぐ下にあります

営業時間:7:10~21:30

券売機で往復券を購入します

 

ちょっと雲行きが怪しいですが ^^; 船に乗り込みました!

f:id:aranciarossa:20230926184825j:imagef:id:aranciarossa:20230926184805j:image


船内もお洒落です✨

f:id:aranciarossa:20230926184802j:image
ただし たったの5分ほどで仙酔島に到着するので あまり寛ぐ余裕はありません

f:id:aranciarossa:20230926184819j:image

 

出航!

 

振り返った高台の上にあるのが 先ほどの福禅寺対潮楼です


船場の隣には 以前宿泊した「汀亭 遠音近音」が見えました

f:id:aranciarossa:20230926184828j:image

鞆の浦周辺には素敵なお宿がいくつかありますが おすすめのお宿です

※ブログを始める5年ほど前に宿泊したので写真をあまり撮っていないのですが  雰囲気だけは味わっていただけると思います(^_-)-☆

 

まもなく仙酔島の桟橋に到着です

f:id:aranciarossa:20230926184946j:image

 

晴れると日差しがきついので 日傘をさしています

 

島には遊歩道が整備されていますが この時は落石のため通行が制限されていました

f:id:aranciarossa:20230926184958j:image

島の海岸近くの遊歩道を一周する予定でしたが 通行できない区間があるので途中で折り返してもと来た道を戻ってくることになりそうです

見どころは海岸沿いに多いみたいなので 残念^^;

 

待合所

f:id:aranciarossa:20230926184935j:image

1時間に3便しかないので まずは帰りの時刻表を確認しました

ただいま12:36ですが この分だと1時間もかからなそうなので13:15の便で帰る目標にしました

予約制ではないので 間に合わなければ次の便に乗船出来ます(^_-)-☆

 

舗装されて歩きやすい道です

f:id:aranciarossa:20230926185248j:image

国民宿舎がありましたが 今は閉館しています

※2023年10月に解体されたようです

f:id:aranciarossa:20230926185114j:image

 

島には民間の宿泊施設が別に一軒あります⤵

f:id:aranciarossa:20230926185148j:image

海岸線の遊歩道は現在立ち入り禁止区間です

f:id:aranciarossa:20230926185144j:image

 

山の高い方に向かい またこの道を戻ってきます🐾🐾

f:id:aranciarossa:20230926185220j:image

 

「仙人ヶ丘コース」の案内はかなり古い看板でした^^;

f:id:aranciarossa:20230926185212j:image

現在地が めくれています^^;

f:id:aranciarossa:20230926192333j:image

この先に展望台があるようです

今でも多くのかたが訪れる観光地なので もうちょっと改善していただけたらなぁと思いました

 

ところで この仙酔島...

“仙人も酔ってしまうほど美しい島”というのが名の由来だそうです

 

仙人ヶ丘からの眺め...

少し雲がちになったのと 電線のせいで 想像したほど絶景ではありませんでした^^;

 

もう少し進んだ所に「赤岩展望台」があります🐾🐾

f:id:aranciarossa:20230926185208j:image

 

こちらが展望台からの眺めです

青空だったら全然イメージが違ったのでしょうね^^;

 

少し時間に余裕があったので 一旦海岸まで下りて🐾🐾

本当に立ち入り禁止になっているのか確認してから 引き返しました(笑)

登りの時間を考えておらず^^; 時間が押してきて 途中で走ることに💨(笑)

 

なんとか予定の時間に間に合いました^^;

f:id:aranciarossa:20230926185241j:image

ふたたび「平成いろは丸」で鞆の浦に帰りました

目次へ↑

 

 

❸活魚料理 鯛めし 千とせ

船場のほど近くにある「活魚料理 鯛めし 千とせ」で昼食をいただきました

営業時間:11:30〜15:00 / 18:00〜21:00 火曜休(※祝日なら木曜休)

 

数組のかたがお店の前の椅子で待っておられ すまりんたちも10分ほど待ちました

混雑していて 店内の写真はありませんが お座敷とテーブルがありました

 

おすすめの 「鯛茶漬け御膳」をいただきました

鯛の天ぷらは からりと揚がって身がホクホクでした💛

 

鯛の切り身をご飯にのせて...

お茶漬けにします⤵

お刺身は弾力があってしっかりお味もついていて美味しかったです✨

すまりんの故郷の郷土料理宇和島鯛めし」にちょっと似ていると思いました

 

下の画像は「松山鯛めし」ですが 宇和島鯛めし」も登場しますのでご覧ください(^_-)-☆

目次へ↑

 

 

❹龍馬の隠れ家  桝屋清右衛門宅

「鯛めし 千とせ」の前の道を数十m進んだ所に桝屋清右衛門宅はあります

「いろは丸事件」の頃 龍馬が隠れていた部屋が残されています

 

一階の土間部分にある「瀬戸内小物と暮らしの雑貨 MASUYA」で入場料を支払い 邸内に上がります

 

こちらは帳場

床の間に龍馬の写真が飾られています

 

「いろは丸」はイギリスで建造された蒸気船です 

長崎のグラバー邸で有名なトーマス・グラバー薩摩藩に売却し その後 伊予大洲藩へと売られました

 

1867年...

幕末四賢侯とよばれた 島津久光薩摩藩主の父)・松平春嶽(前越前藩主)・山内容堂(前土佐藩主)・伊達宗城(前宇和島藩主)が京都に集まり いわゆる「四侯会議(しこうかいぎ)」が開かれました

それに先立ち 各藩は兵を率いて上京しますが 土佐藩でも長崎から大坂へ小銃・弾薬を輸送する必要が生じ その輸送のために大洲藩の「いろは丸」が貸与されることとなりました

そこで「いろは丸」の操船を任されたのが坂本龍馬以下"海援隊"の諸士だったのです

 

後で出てきますが「いろは丸沈没」の責任は紀州藩にあるとして 龍馬は多額の賠償金を請求しました!

双方の主張は対立し 龍馬らは寝込みを襲われないように民家の屋根裏に潜んでいたのだと伝えられています...

上の写真の階段は後につけられたものです

 

当時は天井の板をはずしてはしごで昇降していたそうです

これが屋根裏部屋です⤵

ここで密会が行われていたのでしょうか...

 

屋根裏の奥にもう一つ「隠し部屋」がありました

歩くと床がミシミシ... とても歴史を感じる邸内です

龍馬が隠れていた6畳の間がそのまま残っています

龍馬の息遣いが残っているようで 緊張が走りました...

手紙はもちろん複製です

 

緊張気味のすまき

なかなかできない体験をさせていただきました✨

 

ちなみにすまりんたちは 龍馬が宿泊したと伝わる倉敷の旅館のお部屋にも泊まったことがあります

www.aranciarossa.work

 

 

※龍馬交渉跡

紀州藩との談判は 福禅寺対潮楼のほか 港に近い「魚屋萬蔵の邸宅」でも行われました

龍馬が紀州藩の船長と賠償交渉を始めた場所で 「いろは丸事件談判跡」の石碑があります

魚屋萬蔵宅は 現在リノベーションされて「御舟宿いろは」という 宿泊施設になっていて 龍馬が実際に談判を行った部屋でお食事ができます

※こちらは 次回 ご紹介の予定です(^_-)-☆

 

※圓福寺

一方 紀州藩の宿舎として用いられたのが圓福寺です

港町の細い階段路地を登って行きます

おや? かわいい猫さん 発見!

隣に猫屋敷がありました

 

こちらが圓福寺です

 

この丘一帯はかつては大可島という島で 城が築かれていたそうです

南北朝時代に激戦があったと伝えられています...

 

寺の裏側から 仙酔島の絶景を望むことができました(*^^*)

 

こちらも絶景💛

目次へ↑

 

 

鞆の浦港と「汐ノ音」の映えスイーツ

「魚屋萬蔵の邸宅(現在は 御舟宿いろは)」から20mほど坂を下ると鞆の浦港に出ます


海沿いに建つ古い民家がスイーツのお店になっていました

汐ノ音(しおのね)

営業時間:平日 11:00~17:00 土日祝 10:00~18:00

店内にも小さいテーブルがいくつかありますが テイクアウトして港でいただくのもおすすめ(^_-)-☆

無料シート貸し出しもありました

 

目移りするくらい可愛いメニューが揃います✨


鞆の浦ソフト(ミックス)430円

昔ながらのミルクと 瀬戸内レモネードのミックス

添えてあるビスケットは鞆の浦のシンボル 常夜燈です✨

 

ソーダフロート(瀬戸内レモネードベース)760円

 

二回目は(笑)鞆の浦パフェ 680円 をテイクアウト

青色ゼリーと杏仁豆腐で 鞆の浦の海と青空をイメージしているそうです

パフェにも常夜燈のビスケットが添えられています

 

ピンぼけてますが 港の向こう岸に本物の常夜燈が見えています

 

せっかくなので港の細い路地を抜けて常夜燈 に行ってみましょう...

 

突端にそびえるのが常夜燈(昼間は人がいっぱいだったので これは早朝の写真です)

船の出入りを誘導する江戸時代の灯台灯篭燈(とうろどう)とも呼ばれます

海中の基礎の上からてっぺんの宝珠まで11mあり 港にある常夜灯としては日本一の高さを誇ります✨ ※1859年建造

目次へ↑

 

 

❻いろは丸記念館

常夜燈のすぐ横に いろは丸記念館がありました

 入館料 :小学生以上200円

 

龍馬の乗った「いろは丸」と 紀州藩の「明光丸」が衝突したのは 笠岡諸島の六島沖でした

深夜23時頃のことだったそうです

「明光丸」のほうがかなり大きく 一旦バックした「明光丸」が「いろは丸」を救助しようと接近した時 操舵を誤って再衝突し「いろは丸」は大破しました

自力航行不能となった「いろは丸」は 修理施設の整った鞆の浦へと曳航されましたが 風雨が強くなった翌日早朝に 宇治島沖で沈没しました

 

沈没した「いろは丸」の船体は1980年代に海底で発見され潜水調査が行われ 引き揚げられた船体や積み荷の一部が展示されていました

 

海底の状況が復元されています

 

船が交錯する時には 互いに右へ舵を切って相手を避けるのが原則です

「明光丸」は右へ 「いろは丸」は左へ舵を切っており この点では「いろは丸」に非があるようですが「明光丸」も士官を見張りに置いておらず 二度目の衝突を起こしたミスもありました

4日間にわたる鞆の浦での談判で 紀州側は金一封(千両)を出して事を収めようとしますが 龍馬側は「積み荷の銃火器・金塊の賠償として8万両あまり(現在価値で164億円とする試算もあります👀)を支払え」と主張し 交渉は決裂しました

その後 交渉の舞台は長崎に移り 最終的に紀州藩は7万両を支払うこととなりました

 

※こちらは長崎の龍馬のブーツ像と 亀山社中海援隊の前身)の跡⤵

 

海底の潜水調査で いくつかの交易品は見つかったものの 龍馬らが主張した銃火器などの積荷はまったく確認されておらず 紀州藩から多額の賠償金をせしめるための「はったり」であったとみられているそうです^^;

しかし 龍馬自身は支払われた賠償金を見ることなく京都で暗殺されてしまいます

※龍馬の死後 賠償金を受け取った海援隊中島信行の説明板が長崎にありました

 

記念館の2階には 先ほど訪れた「桝屋清右衛門宅」の隠れ部屋が再現されていました

あのお部屋は1989年の調査で発見され 2011年から公開されているのだそうです

 

こちらは「いろは丸記念館」に再現されたお部屋です

羽織を着て ツーショット写真が撮れるようになっています

先に本物の隠れ部屋を見てしまっていたので こちらはさっと見ただけです(^_-)-☆

 

※太田家住宅

いろは丸記念館のすぐ近くに太田家住宅という商家が残されていて見学ができます

薩会同盟により長州藩三条実美ら急進攘夷派の公家たちは京都を追われることとなりました

長州へと落ちのびる7人の公家たち(七卿落ち)は 一時この屋敷に滞在しました

大きな土間の立派なお屋敷です✨

 

音消しの壺!?

昔版「音姫」だそうです

公卿のかたも トイレで使われたのでしょうか...

 

ここが上の間になるので 公家の方々はおそらくこちらに通されたのでしょうね

 

鞆の浦の名産に 養命酒に似た「保命酒」という薬酒があります

焼酎・もち米・麹に13種類の生薬を漬け込んだ薬用酒は「十六味地黄保命酒」ともよばれ 江戸初期に中村吉兵衛によって製造されました

 

明治期に太田家の所有となりましたが ここはもとは保命酒屋中村家で保命酒の製造元でした

三条実美らもここで保命酒をたしなみ 歌を詠まれたそうです

屋敷の裏手に 巨大な蔵が残されていました

こちらが釜屋⤵

蔵の中で薬草が漬けこまれました


ペリー来航の際にもふるまわれ パリ万博にも出品された保命酒も時代とともに先細ってしまいましたが...

鞆の浦には今も4軒の保命酒屋が残っています

目次へ↑

 

 

❼鞆城 と ささやき橋

港から路地を進んで行くと あたりを見渡せる丘がありました

 

夕日に照らされた鞆の浦の町並みが一望できました

中央の丘の上のお寺の屋根は❹龍馬の隠れ家のところで最後に触れた紀州藩の宿舎 圓福寺です

 

この高台には かつて毛利家配下の鞆城がありました

織田信長に追放された足利義昭はここに「鞆幕府」の御所を置きました

のちに広島城主となった福島正則によって修復が行われ 江戸時代には福山藩の奉行所があったそうです

現在は鞆の浦歴史民俗資料館が建っていて城の痕跡はあまりありませんが 本丸の石垣が一部復元されています 

 

鞆城跡を下りて散策していると「山中鹿之介」の首塚がありました

鞆の浦は歴史のるつぼのような町ですね

 

となりにあるのが「ささやき橋」

こちらはずっとさかのぼって 応神天皇の時代の伝説があるようです…

小さすぎて 良く見ないと見落としてしまいます(笑)

目次へ↑

 

 

大変長くなりましたが💦 最後の項目です

❽医王寺 太子殿からの絶景

早朝 鞆の浦と瀬戸内海を一望できる絶景スポットに行ってみました

昼間の人だかりとはうってかわって誰もいない朝の港はすがすがしいです

 

秋の空を映す朝凪の海

鞆の浦のシンボル 常夜燈にて

 

鞆の浦の町の 西の端まで進んで行きます🐾🐾

山に向かって階段を登って行くと…

医王寺に着きました

弘法大師の開基と伝わるこのお寺は 鞆の浦を見下ろす後山の中腹にあります

朝日を浴びる鐘楼が美しかったです⤵

 

仙酔島を借景にした鞆の浦が一望できました(*^^*)

でもこの風景はまだ序の口...

 

さらに階段を登った所に「太子殿」という絶景ポイントがあるのです!

階段は583段あると言われています

45段ほど登ったくらいから階段に数字が表れました

 

ここは「80」と書かれていますね

数字があると励みになります(*^^*)

 

途中からちょっといいかげんな感じになってきました^^;

両側に数字があって1段登ったら2段稼げたり(笑)

500段め⤵

 

ゴールが見えました!

実際に登ったのは 520段くらいだったような気もします(笑)

医王寺 太子殿に到着🚩

そこからの景色は...

 まさに絶景(*^^*)

 

昨日歩いた鞆の浦の街並みを手に取るようです...

 

朝もやに霞む瀬戸内の島々...

右端遠くの島影が たぶん宇治島です

「いろは丸」はあの辺りの海底に今も静かに眠っているのでしょう...

 

目次へ↑

 

 

長い記事を最後まで読んで下さった皆さま

ありがとうございました

 

次は 旧 魚屋萬蔵宅 「御舟宿いろは」のご紹介です

なんと宮崎駿監督がデザインされてリノベーションされたお宿です✨

 

渥美半島 ちょこっと観光

すまりんたちは愛知県の南東部に突き出した渥美半島にやってきました

本日は すまりんたちが訪れた観光スポットと

「道の駅」で見つけた美味しいもののお話です(^_-)-☆

 

❶ 田原城

❷ 伊良湖岬

❸ 日出の石門

★道の駅 あかばねロコステーション

 

ーーーーーーー

原城

渥美半島の中ほどにある原城田原藩1万2千石の居城でした

 

博物館の前に無料の駐車場があります

 

室町時代にこの地を領した戸田によって築かれた田原城

今川・織田・徳川の勢力がせめぎあう東三河の地にあって 幾度も城主を変えることになります…

江戸時代になると 徳川家の故郷である三河国には譜代大名の小藩が多数置かれました

原城も徳川家譜代の家臣であった戸田  次いで三宅が入り 田原藩明治維新まで200年間続きました

駐車場から 本丸と二の丸を区切る空堀を進みます🐾🐾

立派な石垣は 後に姫路城主となる池田輝政の持ち城であった時代に整備されたと考えられています

 

井戸跡

 

二の丸に櫓が復興されています

原城には天守がなく 二の丸櫓がその役割を担っていました

二の丸櫓の横の坂を下って行きました🐾🐾

 

こちらが桜門

再建された桜門は二階建ての櫓門で こちらが大手門にあたります

原城は 袖池・桝池とよばれる濠に囲まれています

 

桜門から再び城内に入り二の丸を突き抜けると 正面に鳥居が見えました

 

こちらが本丸跡ですが  巴江(はこう)神社になっていました

三宅氏の祖先である 児島高徳が祀られています

もともと田原城は海に面した城で 海水が城を囲む様子が巴(ともえ)の形に似ていることから巴江城の別名があったのだそうです

 

二の丸に 田原市博物館がありました

入場料:一般 310円   小・中学生150円 (月曜休)

 

二の丸櫓は 古写真では下見板張りだったようです

総漆喰の今のものとは全然雰囲気が違いますね

 

田原藩と言えば 有名なのが 渡辺崋山 

f:id:aranciarossa:20230625105424j:image

  パンフレットより

 

博物館にも詳しい展示があり わかりやすいビデオが上映されていました

崋山は貧困の中 苦労して勉学に励み 学者となって田原藩江戸藩校の総指南役となりました

さらに画家としても名を成し

国宝「鷹見泉石像」など多くの名作を残しています

  wikipediaより

 

天保3年1832年家老職を命ぜられましたが 蘭学を修め西洋事情に明るかった崋山は 鎖国日本が世界から遅れをとっていることを憂い「慎機論」といった攘夷の非を唱える書を記したほか 異国船対策として砲台を築き海防に努めました

また 内政では新田開発のほか 義倉「報民倉」をつくってました

 

近くにある池ノ原公園に 崋山の銅像がありました

 

天保6年から8年にかけて

江戸三大飢饉のひとつに数えられている「天保の大飢饉」がありました

天保4年に3198万人だった日本の人口が 天保9年には125万人も減少したと推計されるほど大量の餓死者を出した飢饉でしたが 崋山の「報民倉」のおかげで 田原藩では一人の餓死・流浪者も出なかったそうです!

これにより 田原藩は幕府から表彰される栄誉を賜りました✨

しかし 蘭学者を嫌う幕府の目付 鳥居耀蔵(とりいようぞう)による蛮社の獄がはじまります…

鎖国政策を批判したかどで 崋山をはじめ 彼と交流のあった高野長英などの蘭学者が逮捕されることになりました(>_<)

 

ちなみに高野長英は 幕府の追手を逃れて 一時すまりんの故郷の宇和島に潜伏していたことがあります

こちらは宇和島市にある 高野長英の居住地跡です

裏から見たところ⤵



お話戻りまして…

蟄居となった崋山は ここ池ノ原で幽囚の日を送ることとなりました

公園には その屋敷が復元されています

厳しい世評のなか 藩主にまで災いが及ぶことをおそれた崋山は 屋敷の納屋で切腹して果てたそうです

屋敷の隣に その納屋も復元されていました

※窓から撮った写真です⤵(中に入ることはできません)

 

崋山が没して27年後の明治元年

その罪科は赦免され 同24年 功臣として正四位を贈られました✨

 

目次へ↑

ーーーーーーー

伊良湖岬

伊良湖岬渥美半島の最先端!

端っこ好きのすまりんたちは ここをはずすわけにはいきません(^_-)-☆

 

広い駐車場(無料)が完備されています

駐車場の前には 土産物店が並んでいました

すまりんたちは 学生の時に訪れたことがあります

お店の前にココナッツジュース(丸ごとのココナッツに大きなストローが差してある…)が並んでいて すまきと一緒に飲んだ記憶があるのですが この時は見かけませんでした

お店の様子もあの頃とはちょっと様変わりしてるみたいです

 

 

ここから先 車両は立ち入り禁止です

 

海際の道と山側の道… どちらでも岬に行くことができます🐾🐾

片道10分ほどの距離です

すまりんたちは 行きは山側  帰りは海際の道を使いました

 

ここ恋路ヶ浜唱歌「椰子の実」の舞台になった浜だそうです

1898年(明治31年)の夏 伊良湖岬に滞在していた柳田國男恋路ヶ浜で漂着した椰子の実を見つけたそうです

その話をもとに親友の島崎藤村が作詞した曲が 唱歌「椰子の実」なのだそうです

 

舗装道路は山の方へ向かいますが途中から海岸の方へ下って行きます

 

階段を下ると 灯台が見えてきました✨

「日本の灯台50選」のひとつ 伊良湖岬灯台

高さ約15mの白亜の灯台です✨

渡り鳥が雁行して海を越えていってます↗

 

正面に見えるのは 三島由紀夫の「潮騒」で有名な神島

伊勢湾をはさんで 向こう側に伊勢志摩の山影がうっすらと見えています

 

ちなみに すまりんたちは逆に伊勢から伊良湖岬を望んだこともあります

 

海岸沿いに整備された石畳の遊歩道は ずっと向こうの港の方まで続いていました

背後の山の上には 第四管区海上保安本部 伊勢湾海上交通センターの管制塔がそびえていて 大型船が行き交う伊良湖水道航路を見守っていました⤵

日本経済を支える 自動車輸出の要となる航路ですね

 

海際の道を 駐車場へと戻りました🐾🐾

前方の岬の向こう側が これからご紹介する「日出の石門」です

 

目次へ↑

ーーーーーーー

日出の石門 (ひいのせきもん)

 

国道脇の駐車場に車をとめ 道路を横切った所にある階段を下りていきます🐾🐾

名前からも想像できますが「日出の石門」は有名な日の出スポットです

この時は 雲が多いめの 昼下がり (笑)

 

国道は断崖の上を走っていて 海岸まではかなりの高さがあります

 

途中の岩の上からは 延々と続く長い砂浜が望めました

眼下に広がる砂浜は 片浜十三里(かたはまじゅうさんり)といい 静岡県浜名湖まで約52km(十三里)にわたり続いているそうです!

遠州灘に面していて 波が高く サーファーに人気のスポットのようです✨

※危険な離岸流があるため 遊泳は禁止です

 

海岸の大きな岩山は岸の石門   沖にある岩山は沖の石門と呼ばれます

共に太平洋の荒波によって岩の真ん中が侵食され洞穴となっています

 

沖の石門は 先ほどの伊良湖岬の「恋路ヶ浜」からも見えていました

🔍

恋路ヶ浜からは 10月中旬と2月中旬に沖の石門の穴から朝日がのぼる瞬間に出会えるそうです✨

これは ぜひ見てみたいですね(*^^*)

 

そして こちらが 岸の石門

12月中旬~1月の上旬に この穴を通して日の出が見られるそうです!

岸の石門の穴をくぐってみました

 

波を撮影していたら 想定外の波が来てしまい足が濡れてしまいました^^;

おもしろ動画をご覧ください⤵

※撮影者は すまき   ギャーギャー騒いでいるのも すまきです!

 こういう時 すまりんは比較的冷静なのです(笑)

 

靴の中まで びしょ濡れ⤵

 

実は この浜は NHK大河ドラマ「どうする家康」でも登場しました

大高城から逃げ出した家康が本多忠勝に出会うシーンは この海岸で撮影されたそうです

広い砂浜は天竜川が運んできた土砂が沿岸流で堆積してできたのだそうです

晴れていたらもっと美しい景色だったでしょうね…

 

ちいさな須磨は 海賊風?

 

お遊びはこれくらいにして…

 再び階段を戻ることにします🐾🐾

 

途中に「椰子の実」の歌碑がありました

恋路ヶ浜のところでも触れましたが…

伊良湖岬に滞在していた柳田國男から『恋路ヶ浜に漂着した椰子の実の話』を聞いて島崎藤村が作詞した曲なのだそうです


唱歌 ・ 椰子の実 "YASHINOMI"

 

それにちなんで 昭和54年 北マリアナ諸島のロタ島から メッセージをつけた1000個の椰子の実を放流したところ…

そのうちの1つがここに流れ着いたそうです!

植えられた椰子の木は こんなに大きくなっています👀

 

昭和63年からは 石垣島を『遠き島』に見立て 伊良湖岬恋路ヶ浜に届くようにと毎年椰子の実を投流していたようです

平成11年から平成24年までの投流と漂着の記録がありました

ロマンがあって素敵ですね(*^^*)

 

目次へ↑

ーーーーーーー

最後は おいしい話題で(^_-)-☆

 

道の駅 あかばねロコステーション

国道42号線にある道の駅で 目の前は太平洋✨

 

まずは こちらのお店に行きました

LuLuMoana(ルルモアナ)

オススメの 「みたらし団子ソフト」も気になりましたが…

 "フローズン"という言葉に惹かれ…

 「フローズンメロンサンデー」をいただきました

メロンは渥美半島の特産品ですね(^_-)-☆

 

ちゃっかり単品の「みたらし団子」も付けています(笑)

どちらも大満足の美味しさでした(*^^*)

 

すまりんたちはこの後 お店の中をぶらぶら…

新鮮な野菜や 海の幸も多く販売されていました

綺麗なトマトを箱で買ったのですが すごく甘くて感動しました

 

そして こちらで購入した いちごのジュース

いちごミルクジュース1杯500円ですが 本日限定『いちごを購入するとジュースが200円引きで300円になる』そうです

いちごを1パック購入すれば 二人とも割引して下さるとのことでした

 

いちごは600円からありましたし いちごを買って割引していただく方がお得なのですけど…

このあと温泉宿に宿泊の予定だったので

「今日いちごを持って帰れないので…」と 1杯500円で購入しました^^;

「なみなみ入れておいてあげる(^_-)-☆」と言われましたが

300円だともうちょっと少ないのかは 不明です(笑)

 

「報民倉」というお菓子を見つけました!

今回の記事の最初の方で出てきましたが

米を備蓄し飢饉に備えるために渡辺崋山が建てた蔵のことです

俵型のモナカの皮と 壺に入った餡のセットです(6個入り1300円)

俵に 「崋山」とありますが 置く方向が逆でした^^; 

 

うぐいす餡には小豆の粒が入っていました

皮はサクサクで 餡の甘さも上品で 美味しかったです(*^^*)

 

今回のお話は以上です

 

目次へ↑

 

 

次回は 渥美半島の老舗のお宿「角上楼」のお話です🐈

桶狭間合戦~信長が駆けた道を全部歩く~後編

桶狭間の合戦』をテーマに徒歩で信長の足跡をたどる旅🐾🐾

 ~ 後編 です

 

これまでのお話⤵

 

須磨扮する信長(のぶにゃが)とともに 桶狭間古戦場に向けて清洲城を出発したすまりんたち...

 

KFCで腹ごしらえを済ませ 12時25分の再出発!

 

お昼のためにちょっと大回りしてしましたが...

ここから鳴海街道を南下して丹下砦に向かいます🐾🐾

距離はたったの2.3kmですが 昼下がりの炎天下はかなりこたえました^^;

鳴海街道は台地の上を進む見晴らしのよい道です

 

ここで街道から道をそれて…

鳴海神社の森の裏を抜け 舌状台地の端にある丹下砦へ🐾🐾

住宅街の民家の庭先に丹下砦跡の看板がありました↓

丹下砦は 当時今川方の手にあった鳴海城を包囲するために築かれたもので 砦の大部分は現在 光明禅寺というお寺になっています

当時は高台から 鳴海城が見えたはずですね

 

敵方の城ですが 鳴海城にも行ってみます(^_-)-☆

小さな谷を挟み 直線距離わずか500mの至近に鳴海城跡はあります

城跡は公園になっていました

鳴海城には今川家の重臣 岡部元信が入って守備についていました

 

信長は周囲に丹下・善照寺・中島の砦を築いて これに対抗していました

向こうに見える森のあたりが 丹下砦のある場所でしょうか

信長攻路のプレートがありました⤵

 

鳴海街道をはさんだ天神社に鳴海城跡の記念碑がたてられていました

元信は 桶狭間今川義元が討ち取られた後も 織田方の軍勢をことごとく撃退して鳴海城を守り抜きました

最終的に 主君義元の首級と引き換えに開城して 棺を先頭にゆうゆうと駿府へ引き払ったのだそうです

 

続いて善照寺砦へ向かいます🐾🐾

信長公記』には「先ず丹下砦へ出られ それから善照寺佐久間信盛が在陣する砦へ出られて 兵を集めて軍勢を揃えられ 戦況をご覧になる…」と記されています

上の地図で見ると 鳴海城と善照寺砦は丘の両端にあり 本来ならば一つの城の本丸と出丸ぐらいの近い位置で対峙しています

もともと善照寺という寺があって 鳴海城の出丸の役割を果たしていたところを 織田方が奪って要塞化したのでしょうか?

善照寺は名前と場所を変えて 先ほどの天神社の隣に今も存在しています

今は圓龍寺(えんりゅうじ)と言うようです

 

こちらが善照寺砦跡

「砦公園」になっています

物見櫓?⤵が建っていましたが 松の木であまり視界はよくないです

 

桶狭間はこちらの方角です

時刻は13:30

史実の時刻より遅れ気味です

… やっぱり馬にはかなわない^^;

 

太田輝夫先生の説によれば 善照寺砦から信長の家臣 佐々隼人正ら300人の部隊が先発して 今川軍の攻撃に向かったのだそうです

『中古日本治乱記』という豊臣秀吉の祐筆(書記官)によって書かれた文書によれば「信長の大先手は佐々隼人正正道・千秋四郎大夫良文 信長の瓜紋の旗差揚て向ふ」とあります

つまり 佐々らは 信長本人になりすましていました!

 

今川軍の先頭は 今川家重臣の松井宗信率いる900人の部隊です

佐々らは桶狭間近くの「釜ヶ谷」という場所に潜み 信長の旗印✨をかかげ  昼頃に行軍してきた松井隊と桶狭間村(現在の桶狭間公園付近)で戦闘に及びました

こちらが「釜ヶ谷」です⤵

 

2万5千の今川軍の隊列は2㎞にも達していました

先頭から約1km後方にいた今川義元は 伝令から敵襲来の報せを聞き 即座に桶狭間村へ主力戦闘部隊を送り出すとともに 進軍をストップして臨時の本陣を構えました

本陣の場所は田楽狭間とよばれる場所(現在の桶狭間古戦場伝説地)です


佐々らは当初優勢に戦いましたが やがて続々と送り込まれてくる兵に囲まれて討たれてしまいました

今川軍は信長の旗を掲げた武将を信長だと思い込み 戦勝の祝宴が開かれることになりました

徳川氏の家伝『松平記』では「今朝の御合戦御勝にてめでたしと鳴海桶狭間にて昼弁当まいり候…」とあり まるで信長の大将首をとったような喜びに浮かれる様が記されています


一方の信長は戦況をみながら 二千の兵で中島砦に向かいました

中島砦は川の合流点にありました

石碑は私有地にあり柵の外から撮影しましたが 草が茂って隠れています^^;

ここからさらに今川軍に迫ろうとする信長を家臣たちが無謀だと引き留めようとしましたが 信長は「敵は夜通し歩いて戦い 疲れた武者である  一方こちらは新手で疲れもない…」と諭したのだそうです

 

すまりんたちは日の出前から歩き通しで 十分に疲れていますが(笑)

 

中島砦を後にした信長は 扇川の土手を東に向かい 山際へと進みました

昼下がりの炎天下... くらくらしました^^;

当時は この辺りで急に大雨が降りだしたそうです!

雨の中 炎天下  敵に気付かれないよう 丘を越えていきます🐴🐾🐾

水分補給を忘れずに(^_-)-☆

 

名古屋第二環状自動車道です

歩道橋がつらかったです...

また喉が渇いてきました^^;

 

自販機を探しながら丘の続く尾根道を進んでいきました🐾🐾

たしかにここは 尾根の裏側に身を隠しながら進みつつ 眼下に敵の様子が窺える奇襲に適したルートだと思いました💡

 

ファミマです(*^^*)

ドリンクよりも ガリガリ君

殿もどうぞ (*^^*)

 

奇しくもこのファミリーマート太子二丁目店のあたりが 信長が奇襲のチャンスを窺って待機していた「北谷」と推定される場所になります

尾張徳川家に伝わった『桶狭間合戦申伝写』には「閑道扇川を上りて 会下山 北谷あたりに御着陣」と記されているそうで 会下山は下図の太子ヶ根にあたるようです

※「桶狭間合戦 奇襲の真実」太田輝夫より

この地方には「根」のつく地名が多くあり 峯・嶺に通じるもので山の山頂を示す言葉だそうです

上図の「太子ヶ根」付近は宅地開発で削り取られ 丘はなくなっています

一般的には 現在「大将ヶ根」と呼ばれている高台が 古くは「太子ヶ根」とよばれ 信長が当地で兵を結集して旗揚げをしたことから「大将ヶ根」と名付けられたとする説が流布しています

 

大将ヶ根には知多半島を潤す愛知用水が通っていて公園になっています

丘陵の南端が 大将ヶ根

義元本陣(田楽狭間)をすぐ目の前に見下ろす高台ですが 向こうからもバレバレなのでここに軍を集結させて奇襲するのは難しそうです!

 

丘を下り…

もう一度水分補給(これでも足りないくらいでした^^;)

 

義元本陣はすぐそこです(^_-)-☆

藤田医科大学の昔のキャンパスだった茶色い時計塔の裏になります

国道1号を右折すると 桶狭間古戦場伝説地(史跡)があります

 

こちらが田楽狭間の義元本陣と伝わる場所です

まもなく15時15分...

出発してからちょうど9時間で到着しました🚩

「すわ かかれ!かかれ!」

諸将をあつめて戦勝の宴会をひらいていた義元本陣に織田軍が襲い掛かりました

太田輝夫先生の説によれば 今は高徳院のある西側の山の上からと 南側から迂回した隊の二手で挟み撃ちにしたようです

 


 

到着時はボランティアのガイドさんがおられ パネルが置かれていました

 

今川義元戦死所』の のぼり

こちらがお墓だそうです

※義元が実際に亡くなったのはこの場所ではなく 300人程の護衛とともに国道の方に逃れたそうです

追いすがる織田軍と五度ほど戦って味方が50人に減り ついに400mばかり東に行った場所で深田に足をとられたところを毛利新助に討ち取られたと伝わっています

 

公園の向かい... 西側の山には高徳院が建っています

明治になってからできたもので 当時からあったお寺ではありません

境内には今川義元公本陣跡の石碑がありました

 

境内裏手の墓地横には松井宗信の墓がありました

今川軍の先頭で佐々隊を打ち破った宗信ですが 義元とともに討たれてしまいました

 

疲れ切った身体にむち打って 残りの史跡をまわりました🐾🐾

すまきは腰が曲がっているのではなく地図を見ているのです(^_-)-☆

すまりんは地図を見るのが苦手なので 道案内は基本すまきに任せきり(笑)

 

信長の影武者として死を決して敵陣に突撃した佐々隼人正たちのなきがらは 戦場近くに葬られたと伝わります

塚のひとつが 宅地のまんなかに残されていました👀

塚の真横が一般家庭のお庭だったので ちょっとびっくり!

桶狭間合戦の戦功第一は 義元の首を取った毛利新助ではなく 義元本陣の情報を知らせた簗田出羽守で三千貫文をもらったとされています

この話は信長が情報戦を重要視していた例としてよく知られていますが 実は佐々隼人正の弟の佐々成政は八千貫文の褒美を賜っていたとの話があり 信長がおとりとして死んだ隼人正の功績を最も評価していたことがうかがえます✨

 

七ツ塚から300mほど南にある「桶狭間古戦場公園

このあたりで松井隊と佐々隊の戦闘がありました


古くから多くの人に考察されてきた桶狭間合戦は諸説入り乱れていて 今川義元の本陣についてもいくつも候補地があります

一説では公園から100mほど東にある「おけはざま山」が本陣とされていて…

民家の門前に石碑が建てられていました

ここを追われた義元がさきほどの桶狭間古戦場公園の方に逃れて…

この公園のある場所で戦死したのだということで 石碑が建てられたりもしています

 

義元の馬を繋いだと伝わる"ねずの木"

 

こちらは首洗いの泉

 

公園には 信長と義元の銅像がたてられていました

 

ぐるっと見て回った後 再び「桶狭間古戦場伝説地」に戻ってきました

先ほどのパネルも撤去されていました

 

ここから名鉄名古屋本線 中京競馬場前まで徒歩2分

駅のホーム下のわかりにくい所に「よろいかけの松の石碑」が残されています

戦のあと 信長はここにあった松に鎧を掛け 兵たちが集まるのを待ったと伝えられています

大正時代まで松が残っていたそうですが 今はもうありません…

 

万歩計によれば ここまでの行程は63035歩

歩行距離は41.6kmだそうです👀

さすがに体力の限界を感じ 翌朝は全身筋肉痛でした(笑)

炎天下にアスファルトという悪条件も関係あるんでしょうね...^^;

 

古戦場伝説地にて記念撮影📸

「えい! えい! おー!」

長い記事をお読み下さりありがとうございました

 

てくてくシリーズはこれにて一旦終了(^_-)-☆

次回は 国東半島にある両子寺を訪れたお話です

桶狭間合戦~信長が駆けた道を全部歩く~前編~

桶狭間の戦いといえば...

大河ドラマ歴史小説で何度も何度もえがかれた有名な合戦です✨

親族同士の熾烈な戦いを経てようやく尾張を統一したばかりの織田信長駿河遠江三河の三国を領する今川義元の大軍が迫ります!

今回は 合戦当日 信長が進んだ道をすまきと共に歩いてみることにしました

 

🐾🐾🐾🐾🐾🐾

 

信長の進軍ルートについては【信長攻路】桶狭間の戦い 人生大逆転街道という名古屋市肝いりの観光マップが作られたりしていますが...

https://nobunaga-kouro.nagoya/

正確にはよくわかっていません

 

検討の結果...

すまりんたちは 太田輝夫先生著作の「桶狭間合戦 奇襲の真実」という本や 当時の地形がまだ残っていた明治期の帝国陸軍陸地測量部の地図を参考にしながら オリジナルのルートを考えました(^_-)-☆

 

ー ー ー ー ー ー

 

時代は戦国時代まっただなかの永禄3年5月(今の暦では梅雨の6月)

今川の圧迫により鳴海城・大高城が調略され 織田領知多半島の付け根で南北に分断されつつありました

 ※「桶狭間合戦 奇襲の真実」より

 

これに対抗すべく 砦を築いて城を取り返そうとしていたところに 今川軍来襲の知らせが入ります

その数2万5千!

当時の織田軍の兵力は2千だったといわれています

 

・・・・・

 

5月18日  信長の居城 清洲城(きよすじょう)で軍議が開かれます

大高城を包囲するために築いた 丸根・鷲津の砦が 今川軍の先鋒部隊に攻められて救援要請があったのですが 信長は早々に軍議を切り上げ 動こうとしませんでした

 

大高城(別日に撮影)

 

丸根砦

 

鷲津砦

 

この戦いでは 当時今川軍に所属していた 松平元康(徳川家康)が活躍しました

 

こちらが清洲城

※平成元年につくられたもので当時の姿ではありません


ただいまの時刻は午前6時15分...

まだ開館前で入場することはできません

 

清洲城天守は実際は五条川を渡った対岸の清洲古城跡公園にありました

城跡は東海道本線と新幹線によって分断され 大部分が消失しています

公園前にある石碑⤵

川の護岸工事の際に出土した当時の石垣が 復元展示されています

 

新幹線の線路をはさんだ清洲公園には 信長と帰蝶濃姫)の銅像が…

夫婦円満・恋愛・立身出世・必勝祈願のパワースポット✨だそう



1609年 徳川家康により尾張徳川藩の本拠が清洲から名古屋へ移されると 清洲城は廃城となりました

清洲城天守を移築したと伝えられる名古屋城御深井丸(おふけまる)の西北隅櫓

 

さて 5月19日 桶狭間合戦当日の信長は というと...

早朝に湯漬けを食し

幸若舞「敦盛(あつもり)を舞い...

出陣の法螺貝を吹かせて 主従わずか6騎で城を飛び出しました!

人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻乃如くなり...

 

昔 親友にすすめられて見ていたTV番組「戦国鍋TV 〜なんとなく歴史が学べる映像〜」のなかで敦盛2011という曲が流れていました

武田勝頼討ち獲ったら城持ち大名になりたいな…

 ~下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり~♪


www.youtube.com

なんとなく歴史が学べる(?)ノリノリの曲✨

歌詞は別としてクセになる(?)曲なので サビの部分だけでも ぜひ聞いてみてください (^_-)-☆

信長役は村井良大さん 蘭丸役は鈴木拡樹さん

お二人とも素敵ですよね✨

 

敦盛2023を舞う我らがのぶにゃがさま

ちゅ~る湯漬けを持て!

いざ出陣にゃー!

 

まずは熱田神宮に向かい 軍の集結を待ちます🐾🐾

 

清洲から熱田方面に向かう道は「京鎌倉往還道」と「美濃路」が考えられるようですが 東海道の発展とともにかつての京鎌倉往還道は失われ 現在はっきりとした道をたどることはできません

一方の美濃路は 時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」埼玉大学教育学部 谷 謙二先生)でもはっきりと確認することができます

すまりんたちは美濃路をたどって熱田に向かうことにしました🐾🐾

まずは清洲城から枇杷島橋南詰まで4.9㎞の道のりです


歩き出してすぐ 前田利家とまつの案内板がありました

前田利家は刃傷沙汰をおこして出仕停止処分中でしたが 桶狭間の戦いに無断で参加し 首級三つを挙げる戦功を立てました

 

旧街道の面影を残す道

 

途中の須ヶ口正覚寺というお寺があります

さすがお寺さん!もう門が開いていました

すこしおじゃまして 境内にある「今川塚」を見学

 

枇杷島橋に到着

庄内川を渡ります🐾🐾

橋のたもとに 美濃路の道標がありました

橋は江戸時代に架けられたようですが 信長たちはどうしたのでしょうか...

濃尾平野は大きな川が多いので移動が大変ですね

現在の時刻は7時15分...

次は名古屋城まで3.1㎞です🐾🐾

 

清音寺の前を通り過ぎました

枇杷島の語源となる伝承のあるお寺です

ポイントとなる場所には「信長攻路」のシンボルマークがありました

この辺りは信長の庭みたいな場所だったようです

 

こちらが白山神社

清洲城より出陣した信長が 最初に戦勝祈願をした場所といわれています

大勝利のお礼として太刀一口を奉納されたそうですが 名古屋空襲で焼失したそうです

 

名古屋城まであと少し...

 

名古屋城の内堀にたどり着きました

こちらが先ほど出てきた御深井丸(おふけまる)の西北隅櫓

清洲城天守を移築したと伝えられ清州櫓(きよすやぐら)とも言われます

実際に解体修理された結果 高欄 (最上階のベランダ)を伴う櫓状の建築の部材が多く転用されており 伝承が裏付けられた形となりました

天守の形は望楼型から層塔型へ進化していったので「高欄がある望楼型の建築」は 古い時代のものと推定されます

宇土城の天守を移築したといわれる熊本城の宇土(うとやぐら)もそうですね

熊本地震で損壊する前に撮影

 

名古屋城から熱田に向かう道は 名古屋城の城下町整備によって旧道が変えられている可能性が高いです

今はきれいな碁盤の目に区画整理されていて 那古野(なごや)とよばれた戦国時代当時の面影はありません

当時の那古野村には 那古野城があり 信長も一時ここに居住していました

現在の名古屋城二之丸一帯に城があったと考えられていますが 遺構は残っていません

名古屋市博物館HPより 那古野村之古図

 

信長一行が駆け抜けた際には 那古野城に詰めていた兵士たちにも 出陣の触れが伝えられたことでしょう...

 

現在8時15分

信長時代の旧跡をひろいながら 金山へ向かいます🐾🐾

およそ6㎞の道のりです

 

本社ビルの並ぶ 丸の内のオフィス街を進みます


名古屋市科学館プラネタリウムの下は開館前で通れず 迂回...

 

白川公園の新緑に 疲れが癒されます

 

大須観音の前を通り過ぎました…


日置神社に到着

出陣の際に信長が戦勝祈願をし 勝利の御礼として松を千本を植えたと伝えられています

沢山あったはずの松は 明治時代に最後の1本が枯れて 今は無いそうです

スタンプラリーもあるんですね⤵



続いて現れた立派な寺院は真宗大谷派名古屋別院です

古渡城(ふるわたりじょう)があったと言われ 古渡城跡碑がありました

東南方への備えの役割を果たす重要拠点で四方を二重の堀に囲まれていました

信長13歳の時 この古渡城で元服したと言われています

 

歩き始めて まもなく3時間...

暑くて喉がカラカラだったので 水分補給✨

 

名古屋別院に隣接する下茶屋公園

古渡城の堀跡にあたるのだそうです

堀跡の痕跡を残す池には黄菖蒲の花が満開でした(*^^*)

都会のオアシスですね✨

 

金山駅前を通過🐾🐾

ただいま9時35分... 

熱田神宮まであと2.4㎞! がんばります

 

かなり日差しがきつくなってきました^^;

日陰を選んで歩きます🐾🐾

 

熱田神宮に到着! こちらは西門です

感染症も下火になって 参道には参拝客がたくさんおられました

 

こちらが本殿⤵

三種の神器の1つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)が祀られています

 

桶狭間当日...

信長はここで戦勝祈願をして『5枚 投げた銅賽銭のすべてが同じ面を向く✨』という吉兆を得たと伝えられています

熱田神宮宮司の千秋織田家配下の武将の一人で 桶狭間で重要な役割を果たしつつ 戦死を遂げました

戦後 勝利の御礼として信長塀が奉納されました

本殿を囲うように建立された塀は 一部ですが現在も当時のまま残っています

 

樹齢1200年を超える手水舎横の大楠は弘法大師の手植えと言われています

この木はきっと当時の様子を見ていたのでしょうね...

 

こちらが正門

 

正門を出てすぐ右側にある摂社 上知我麻(かみちかま)神社

太夫と通称されるこの神社は かつてはもう少し南の 美濃路東海道の分岐点にありました

信長の旧臣である太田牛一が 江戸時代初期に記した『信長公記』によれば「辰の刻に源大夫殿宮の前で東をご覧になると鷲津・丸根砦が落ちたと思われ 煙が上がっていた」との記載があります...

 

当時の熱田神宮は すぐ南に海が迫る岬の突端のような場所にあったので 今と違って眺めも良く はるか南の戦場の煙が見えたのでしょう

この時 信長一行は 馬上6騎と雑兵200人ほどだけだったと言われます

雑兵の中には 当時足軽程度の身分だった 木下藤吉郎(秀吉)もいたかもしれませんね

 

熱田神宮正門のすぐ南...

こちらは 鰻のひつまぶし発祥の店とされる「あつた蓬莱軒」神宮店です↓

時刻は10時30分

もうお昼の順番待ちの整理券が配られていましたが すまりんたちは先へ進みます🐾🐾

 

国道1号線に出ました

美濃路はここまでで ここから先 東海道になりますが…

戦国時代にはこの辺りまで海が寄せていて 潮の具合によって大きく山の手を迂回する必要がありました

平安時代に遡りますが『更級日記(さらしなにっき)』でも 著者の 菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)が「あづま路の道のはてよりも なお奥つ方」から京の都へのぼる道中…

尾張の国 鳴海の浦を過ぐるに 夕潮ただ満ちに満ちて 今宵宿らむもみ中間(ちゅうげん)に 汐満ちきなば ここをも過ぎじと あるかぎり走りまどひ過ぎぬ」

と書き記しています

→→鳴海の浦を過ぎると午後の潮が満ちてきていました

ここで宿をとるのも中途半端なので 満ち来る潮のなかを慌てて駆け抜けました💨

(すまりん意訳)

 

現在でも 名古屋港の潮の干満差は2mを超えるほどもありますから 波打ち際をすすむ街道はその時の潮の状況によって経路が変わったのだろうと思われます

 

では 桶狭間決戦当日はどうだったかというと...

「浜沿いから進めば程近いが 潮が満ち入り 馬が通れず 熱田から上手の道を馬を急がせて駆けられ…」と言った内容が『信長公記』に書かれているようです

満潮だったので少し遠回りしたようですが ここに書かれる「上手の道」の正確なルートは不明です

 

現在では該当する道もないので すまりんたちは旧東海道に沿って進むことにしました

次はちょっと長丁場 ... 野並の交差点まで 6.5㎞の道のりです


熱田神宮伝馬町の交差点

照りつける日差しに疲労が増しますが 花に癒されました💛

 

車の多い国道1号線沿いは つらい道のりです

道の左側を進んでいたら…

 

歩行者通行禁止!

がっくり肩を落としても"いかり肩"のすまりん(笑)

200mも後戻りして 迂回することになりました^^;

 

あとから見返すと 手前に何か所か警告の看板があったようですが 他の道路標識と紛れて全く気付きませんでした (>_<)

気をとりなおして再スタートです

 

歩き続けて5時間🐾🐾

国道1号線から離れて 旧東海道は住宅地の中を進みます

 

こちらは白毫寺というお寺

この付近はむかし 松巨島とよばれる半島状の地形だったそうで 白毫寺のある場所は海に面した高台でした

本堂の裏に 「年魚市潟(あゆちがた)勝景」という景勝地だったことを示す石碑が建てられています

万葉集の歌碑⤵

かつて この一帯に広がっていた干潟は「あゆち潟」と呼ばれました

愛知県の地名はこの名に由来します

 

今では生い茂る雑木の向こうに連なる民家の屋根を見下ろすばかりですが 当時は干潟に沈む美しい夕日が見られたことでしょう...

 

東海道をさらに進むと 石碑を発見!

東海道鎌倉街道との交差点を示す石碑でしょうか?

ここから東海道はさらに南に下っていくのですが 中世には天白川に沿って 満潮時には海が寄せる入り江になっていたと考えられています

当然信長も湾に沿って迂回したものと思われますが 海がどの辺りまであったのかはっきりしないため ルートには諸説あるようです

すまりんたちも東海道を離れ この鎌倉街道を東へ進むようにしてみました

 

天白川を越えます🐾🐾

照り付けるアスファルトは目にも足にもこたえました(>_<)

 

当時は海の入り江だった場所です

 

野並に到着!

正午にKFCの前にたどり着きました👀

筋肉の超回復のためにタンパク質補充です✨

今回は 食べやすい骨なしチキンです

 

殿も のどがかわいたにゃー

のぶにゃがさま ごめんなさい! 氷しか残ってません^^;

 


ここからいよいよ前線の砦に向かいます🐾🐾

  ..  .

 

シカの島「鹿島」で ご当地鯛めしに舌鼓!

島影連なる伊予灘の海

今回の旅の舞台は愛媛県!すまりんの故郷です(*^^*)

すまきとすまりんは久しぶりの愛媛入り…
f:id:aranciarossa:20221024213307j:image

松山空港では相変わらず「みかんジュースのタワー」がお出迎え!

あの伝説の 蛇口からみかんジュース」も健在です(^_-)-☆

f:id:aranciarossa:20221024213322j:image

現在は手指用の消毒楽も設置されています!

1カップ(←自分で入れます) 350円

今回はパスしましたが 5年前(2018年)の写真です⤵

せこくナミナミまで(笑)

 

ところで愛媛県のグルメと言えば「鯛めし」があります

鯛めしと聞くと 皆さんはどんなのを思い浮かべるでしょうか

 

実は 愛媛の鯛めしには2種類あるんです!

 

一つは すまりんの故郷の 宇和島鯛めし

生卵を溶いたタレの中に新鮮な鯛の刺身を入れて…

ごはんにかけて食べる 豪華版卵かけごはんです✨

※以前は2人で注文すると 上の写真みたいに鯛の姿の上に2人分のお刺身がのった状態で提供されていましたが…

今は二人で注文しても こんな感じになっています⤵

※写真は 上が丸水さん 下がかどやさん(いずれも老舗です)

かどやさんのほうがちょっと雰囲気出てますかね…

ちなみに ヒオウギ貝も愛媛の特産品です(^_-)-☆

 

盛り付けた宇和島鯛めし✨

お味は 絶品✨のひとことです(^_-)-☆


前置きが長くなりましたが

もうひとつの鯛めしが 今回食べる 松山鯛めし

 

これからすまりんの両親も一緒に伊予北条にある鹿島へ向かいます

そこに嘉永6年創業という 元祖鯛めしの店 太田屋さんがあるのです

 

松山市中心部からは車で30分ほど🚗

平成の大合併松山市となりましたが「かつての北条市」の港に到着しました

鹿島神社の鳥居の向こうに見えるこんもりした森が 北条のシンボル 鹿島

※夕暮れなのは 帰りに撮影したからです(^_-)-☆

 

鳥居をくぐり 1回520円の渡船駐車場に車をとめて…

鹿島への乗船券を購入しました(大人往復210円)

※すまきがおデブなのはカメラのいたずらです(笑)

 

渡船は ほぼ20分おきに出ています

松山鯛めしというより北条鯛めしというべきなんでしょうね…


そろそろ時間なので 桟橋に向かいます

鹿島は目と鼻の先です(^_-)-☆

f:id:aranciarossa:20221024214241j:image

🔎海に面したオレンジ色の建物が 太田屋さんf:id:aranciarossa:20221024214002j:image
渡船の上に鹿が乗っていますよ👀
f:id:aranciarossa:20221024214017j:image
もちろんオブジェです
f:id:aranciarossa:20221024213730j:image

 

船に乗り込みました

ちいさな須磨も気持ちよさそう!

f:id:aranciarossa:20221024214156j:image
f:id:aranciarossa:20221024213624j:image

航行中には愛媛出身の友近さんによる案内のビデオが流れます

もうちょっと乗っていたかったですが 所要時間 わずか数分で到着!

鹿島は周囲1.5kmの小さな島です

桟橋から 海に突き出た太田屋さんの威容が目立っていました✨

迷うこともなく 歩いてすぐ(^_-)-☆

f:id:aranciarossa:20221024214205j:image

太田屋旅館 鹿島店愛媛県松山市北条)

営業:4月下旬から11月上旬まで
f:id:aranciarossa:20221024214230j:image

すまりんたちは食事のみで利用しましたが

こちら 宿泊もできる施設です(^_-)-☆

"寅さん"でおなじみの渥美清さんは常連だったそうです!

 

写真はありませんが レジ横に色紙が何枚か飾ってありました

たしか大泉洋さんのサインもありました

 

鯛めしは折箱に入れて持ち帰りもできるようです
f:id:aranciarossa:20221024214118j:image

すまりんたちは二階席に通されました
f:id:aranciarossa:20221024213627j:image


全面窓の展望海上座敷です✨

f:id:aranciarossa:20221024214105j:image

魚が群れていました

まるで屋形船の上にいるみたい…

向かいにもテーブルが並んでいて5~6人のかたが食事をされていました

 

すまりんたちは いちばん先端のテーブルに案内されました

本日の主役の鯛めしもすぐに運ばれてきました

※鯛めしは炊きあがりに時間がかかるので事前に予約が必要です

f:id:aranciarossa:20221024214014j:image

尾頭付きの「姿炊き鯛めし」です✨

f:id:aranciarossa:20221024213656j:image

見せて下さったあとは一旦ひきあげて…

身をほぐして持ってきてくださいました

お吸い物と一緒にいただきます

f:id:aranciarossa:20221024213950j:image

鯛の身は柔らかくてとっても美味しかったです(*^^*)

 

せっかくなので新鮮な海の幸も注文しました

f:id:aranciarossa:20221024214219j:image

貝のお刺身やアナゴの天ぷらなど…

車エビに車輪がついています👀

さすがどれも素材の味が光っていました✨

 

松山(北条)鯛めしの起源については…

 むかしむかしにさかのぼります

神功皇后三韓征伐の戦勝を祈願し鹿島明神に船を寄せられた時のこと…

この地の漁民たちが鯛をのせて炊き上げた飯を献上すると 神功皇后は大いに喜ばれ その味を称賛されたのだそうです✨

それ以来 この鹿島から松山(北条)鯛めしがはじまったと伝えられています…

 

お腹がいっぱいになったところで

島を散策してみました🐾🐾

まずは桟橋のすぐ近くの鹿園をのぞいてみます
f:id:aranciarossa:20221024213722j:image

鹿島には野生の鹿が生息していたそうで現在は保護飼育がおこなわれています

鹿さんたち…遠くでかたまっています
f:id:aranciarossa:20221024214143j:image

こっちを見ていますが 近寄ってくることはありませんでした^^;

🦌ひやかしお断り… だそうです(笑)

 

近くの土産物店に鹿の餌が売っていました!

f:id:aranciarossa:20221024213706j:image

早速購入(^_-)-☆

これで鹿のハートを射止められるかな??

 

相変わらず 山の奥の方にいる鹿さんたち…

f:id:aranciarossa:20221024214239j:image

餌の袋をちょっと振ってみると…

 

すごい勢いで鹿さんが走ってきました🦌🦌🦌💨

f:id:aranciarossa:20221024214246j:image

食いつき抜群✨

一瞬で餌が奪いとられました^^;

 

インスタを添付します(40秒ほどの動画です)

右側で豪快にあげている「手」は すまりんの両親です

 

結局おかわりを買いに行くはめになりました^^;

f:id:aranciarossa:20221024214222j:image

 

 

こちらは島内にある鹿島神社

神功皇后出陣の折 武甕槌神経津主神をお祀りし 戦勝と道中の安全を祈願されたのだそうです

 

海岸まで鳥居が続いています


神社の向こうはキャンプ場として整備されていました

さらに堤防の端まで行くと 沖の方に小さな島が見えていましたf:id:aranciarossa:20221024213952j:image

左は千霧で 右は男小鹿島 という名前ですf:id:aranciarossa:20221024214215j:image

二つの島の間に見える小さな岩を拡大すると🔎

岩にしめ縄が張られているのがわかります

長さ42mの 大しめ縄✨

伊予の武将 河野通信が源氏方として源平合戦屋島の戦いに参加した折 戦勝祈願として張られたのが始まりということです

毎年ゴールデンウイークには大しめ縄の張替えが行われるそうです

しめ縄は3つの岩のうち両端の岩にかかっています

f:id:aranciarossa:20221024214233j:image

両端の二つの岩はそれぞれ「玉理(ぎょくり)」「寒戸(かんど)」という名前です

「伊勢二見浦の夫婦岩」に似ていることから 伊予二見とか夫婦岩とも呼ばれます

真ん中の石には名前はありませんがてっぺんに小さな祠が建っています

 

ちなみにこちらが「伊勢二見浦の夫婦岩」⤵

ラッキーなことに岩の真ん中の延長に富士山が見えています

 

 

ここは 鹿島の展望台に向かう登山口です

標高114mということなので すまきと二人で登ってみることにしました(^_-)-☆

一応遊歩道として整備されています

ただし すまりんはスカートにパンプス👠

 

中腹の平地に 鹿島城跡の説明板がありました 

かつてこの地は「風早(かざはや)郡」と呼ばれていました

とっても詩的で ずっと残しておきたい地名だと思いますが 明治以降の市町村合併によって消滅してしまいました(>_<)

その風早の地から興ったのが「河野(かわの)氏です

 

源平合戦以前からの古い血筋である河野は 瀬戸内最大規模の河野水軍🏴を擁する海賊の親玉でした

有名な村上水軍🏴も形式的には河野の配下だったのだそうです

鹿島城は 河野の拠点である風早北条の周囲をかためる支城のひとつでした

やがて伊予一円に勢力をのばした河野は 本拠地を松山道後の湯築城に移しました

湯築城道後温泉のすぐ隣に道後公園として整備されています↗

河野豊臣秀吉四国征伐で滅亡し 風早郡は秀吉方として参陣した村上水軍の一族 来島通総に与えられました
来島通総はここ鹿島城に本拠地をおいて 伊予風早1万4000石の大名となりましたが 朝鮮出兵で戦死してしまいました

 

急ぎめで登ったので登山口から15分かからず頂上に到着🚩

 

こちら「御野立の厳(おのだちのいわお)

神功皇后がこの岩に立ち 矢を放って戦勝を祈願したと伝えられています

御野立の厳に立つすまきが神々しかった(笑)

ちなみにここからの景色はこんな風です

 

展望台です⤵

f:id:aranciarossa:20221024213956j:image

スマホのレンズが汚れてました👆(笑)

 

展望台からは旧北条市街(現在は松山市)が一望できました

🔎木の陰に 港の大鳥居⛩が見えています

 

北を望むと穏やかな瀬戸内海に島影が折り重なるようです

あの向こうは広島の呉になります…

 

ここは恋人の聖地💛 しあわせの鐘がありました(*'▽')

f:id:aranciarossa:20221024213936j:image

西の沖は夕日の絶景スポット!

f:id:aranciarossa:20221024213715j:image

そして 須磨の視線の先には…先ほどの夫婦岩が見えます💛

すまきとすまりんと須磨とで仲良く記念撮影📷

 

無事下山…

場違いな^^;すまりんですが 予定外のプチ登山だったのですよ!

f:id:aranciarossa:20221024213636j:image

 

太田屋さんはもう本日は閉店されたようです



すまりんたちも 船で戻ります…

雲が多くて綺麗な夕焼けを見ることはできませんでした
f:id:aranciarossa:20221024213938j:image

UFOに吸い上げられそうな空(笑)
f:id:aranciarossa:20221024214236j:image

 

後日 飛行機から撮影した"朝焼けに染まる鹿島と夫婦岩"です


次回は

道後温泉の「ホテル古湧園 遥」のお話です(^_-)-☆

天草四郎ゆかりの富岡城と原城のおはなし

すまきとすまりんは天草の左上にちょこんと突き出た 不思議な形の岬を訪ねました

富岡半島というこの岬は 北海道の函館と同じ地形の陸繋島(トンボロ)です


島のように見えるのが富岡半島です⤵

三方を海に囲まれたこの要害の地に難攻不落の城 富岡城があります

 

岬に向かう道路を抜けると 山の上に櫓群が見えてきました

山すそにある袋池は 濠の役割を果たしました

f:id:aranciarossa:20220927213636j:image

東シナ海に突き出した島のような地形ですから 真水の貯水池としての役割もあったと思います

 

裏手からぐるっと回って 本丸直下の駐車場まで車で登ることができます

看板の現在地の横の駐車場に車をとめました

※この案内図には載っていませんが さらに上にも駐車場がありました

 

知らなかったすまりんたちは歩いて坂を登りました🐾🐾

…といっても 2分くらいです(^_-)-☆

すぐ目の前にはお城が見えています

上の写真で すまきの左前方にもう一つの駐車場はありました

 

立派な石垣は島原の乱以後の江戸時代初期に整備されたものです

城マニアのすまきは嬉しそうに何枚も写真を撮っていました

 

階段を上がります…

 

こちらが二の丸

青空だと良かったです…

 

海には天然の土塁のような砂嘴が伸びて 巴湾という内海をつくっています

海からも陸からも極めて攻めにくい天然の要害の地です

 

富岡城… 

辺鄙な場所で あまり有名でもない(?)お城ですが…^^;失礼

塀や本丸の櫓は なかなか立派に復元整備されています✨

 

江戸時代 天領となった天草を代官として治め領民のために尽くした鈴木重成などの銅像がたてられています

鈴木重成は 幕府に年貢の半減を訴えて自刃されたと言われています

領民の負担を軽減するために 立派すぎるお城は大半が廃城とされました

 

階段を上って本丸に向かいます🐾🐾

読むのにちょっと勇気のいる案内…

すまきは読んでいました (フリだけかもしれません

 

本丸の門を背に記念撮影

 

門の内側からの写真⤵

 

本丸に復元された多門櫓は「富岡ビジターセンター」になっています

富岡城の歴史や天草の海についての充実した資料が無料で公開されています

奥にシアタールームがありました

ビデオは2種類ありました

•パノラマスクリーンで体感する天草海中の世界

•3Dメガネをかけて鑑賞する天草海中の世界

ビジターセンターのかたに パノラマスクリーンの方がおすすめと言われましたので 3Dメガネは使用せず そちらを見ました

時間は10分くらい

天草松島の美しい映像でした(*^^*)

東シナ海有明海八代海の三つの異なるタイプの海に囲まれ 潮の干満の差の激しい天草諸島には 海の生き物たちがたくさんいるのだそうです

 

ところで…

島原半島長崎県)と天草諸島熊本県)は早崎瀬戸で隔てられています

その距離わずか4.4Km…

架橋計画も構想されるほどに目と鼻の先にあります

 

島原の口之津港から天草の鬼池まではフェリーで渡ることができます

そんな近くにある島原地方と天草地方は 安土桃山時代から江戸時代初期にかけて とても似た境遇にありました…

 

島原と天草はそれぞれ キリシタン大名有馬晴信小西行長が治めていました

しかし…

関ヶ原後に領主が変わり 松倉と寺沢が新たにこの地に入部し どちらも過剰な年貢の取り立てと熾烈なキリシタン弾圧を行い 領民は塗炭の苦しみを味わいました(>_<)

悪政に耐えかねた島原と天草の人々は早崎瀬戸の真ん中にある湯島(談合島)で会談を行い…

1637年(寛永14年)の晩秋に天草四郎を総大将とする島原の乱が勃発しました

 

天草四郎を戴いた一揆軍が 寺沢が築いたこの富岡城に攻め寄せました

f:id:aranciarossa:20220927213636j:image

 

城を守っていた兵は三千人…

一揆軍はその3倍以上…

約一万人の大軍でしたが ついに富岡城を落すことはできませんでした

もし一揆軍が難攻不落のこの城を奪えていたら 島原の乱の結末はまた違ったものになっていたかもしれません

 

天草の一揆軍は 早崎瀬戸を渡り 島原の人々と合流しました

そして3万7千人となった一揆の軍勢は当時廃城となっていた原城に立てこもりました

 

原城は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成遺産のひとつで 島原半島の南部にあります

※もともとはこの地の大名であった 有馬が居城として築城しましたが 延岡に転封となったため 廃城となっていました

 

これからその原城跡に向かいます…

f:id:aranciarossa:20220927213522j:image

駐車場は 城内を突っ切った先の大手口にあります

こちらが大手門外にある駐車場

本丸まで 舗装された道ですが 少し歩く必要があります🐾🐾

※足の不自由な方などは本丸付近まで車で行くことが許可されています

 

坂道をのぼると大手門跡の看板がありました

原城は 三の丸・二の丸・本丸が直列につながる連郭式縄張りの構造です

本丸が常にお城の中心にあるとは限らないのですね(^_-)-☆

 

こちらが三の丸

 

三の丸から少し下った所に 板倉重昌の碑がありました

板倉重昌は幼少の頃から徳川家康に仕えた近習で 大坂の陣にも従軍経験があることから 幕府軍の総大将として任ぜられました

しかし わずか1万5千石の 小大名である板倉重昌

九州の大大名たちは言うことを聞かず統制がとれなかったそうです

そのため 幕府はあらためて知恵伊豆と呼ばれた老中 松平伊豆守信綱を大将として差し向けることとなりました

メンツ丸つぶれの重昌は功を焦り 突撃して眉間に銃弾を受け戦死してしまいました

総大将を討ち取った一揆軍はますます意気があがります

 

広大な二の丸は 8万㎡あまりありました

原城には一揆軍3万7000人が立て籠もっていたといわれています

広い城だけに 非戦闘員も含めて皆がこの城に入ることができました

けれどそれだけの人数が生活するには 全然補給が足りません

松平伊豆守がやってきた頃にはすでに海藻で飢えをしのいでいたそうです

 

原城は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成遺産のひとつとして世界遺産に登録されています

 

ようやく本丸が見えてきました

本丸手前には空堀跡があります⤵

堀の底には 女性や子供が避難していたそうです

結局 籠城していた老若男女3万7000人は全員が戦闘と処刑で命を落としました(>_<)

生き残ったのは内通者であった山田右衛門作(南蛮絵師)ただ一人であったといわれています

 

こちらが本丸大手門跡

最大の激戦地であり おびただしい人骨が著しく損傷した状態で出土したそうです

当時を再現したVR画像が見られるとのことでしたが…

f:id:aranciarossa:20220927213422j:image

通信環境が悪くてダウンロードできませんでした^^;

f:id:aranciarossa:20220927213445j:image

すまきのもすまりんのも このまま凍ってしまいましたので 諦めました^^;

 

ぐるりと回りこんで…

こちらが本丸の虎口(入り口)です⤵

入ってすぐ左に「四郎家」の案内板がありました

このあたりで天草四郎が起居していたと伝えられています

 

天草四郎の像(当時16歳でした)

 

四郎の墓石

南島原市の民家の石垣の中に埋もれていたものを ゆかりの深いこの地に移したのだそうです

曼殊沙華が咲いていました…

 

本丸には十字架がたてられていました

f:id:aranciarossa:20220927213537j:image

 

沖に浮かぶ島は島原と天草の人たちが決起の相談をしたという湯島(談合島)

f:id:aranciarossa:20220927213517j:image

お地蔵さまのようなキリシタンの石像が見つめる先は…

四郎の故郷 「天草」の方角です

なんとも哀愁が漂っていますね…

 

 

次回は愛媛県にまいりまして

「鹿島」のグルメ&観光のお話です(^_-)-☆